アラフォーと新生活

雑多記事エッセイ

本日、Amazonで行われている「Amazon新生活セール」の記事を書いたのですけど「新生活」って言葉、なんかとってもいい響きですよね。

昔から新生活と聞くと心が踊って心拍数がぐんと高くなるような、別に新生活を始めるわけじゃなくてもそういう想像をしているだけで楽しくなってくるような、そんな感じがしていました。

いました。そう過去形なのです。

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いつからだろう、新生活に心が踊らなくなったのは。

新しい生活が始まる季節と言えば、学校の卒業が起点となっているのかそれとも社会の始まりが起点となっているのかは分かりませんけど、多くの場合この季節、3月末から4月ですよね。

もちろん進学したり入社したりだけではなく、生きているといろいろな新生活が待っています。

私も以前は「色々な場所で、色々な生活、色々な人生を送ってみたい」と思い続けている人間でした。1箇所に留まってひとつのことに人生を捧げてずっと同じことを繰り返して生きていくことができない。

自分のことをそういう人間だと思っていました。

しかしいつからでしょうか。

そういうことを面倒に思うようになってきました。正確に言えば面倒と怖さが入り混じっていると言ったところかもしれません。

新しい場所に行くのが面倒。

新しいことをするのが怖い。

新しい人に出会うのが辛い。

今までの生活が壊したくない。

思い返せば40歳の手前辺りから、そういう感覚はじわじわと心の中で大きくなっていっていたんじゃないかな、と思います。

TEXT FIELDを始めたのも小説を書き始めたのも、そういう自分の気持ちを振り払いたいという想いがあった、というとちょっとカッコつけすぎかもしれませんけど「そういう自分になりたくない」と思っていたのは確かだと思います。

自分で自分のことを保守的(ここでは既存のことを変えたくないと思うことを指します)になってきていると自覚はあり、それを変えたいとも思っている。でも「新生活にドキドキしていたあの頃」には完全には戻りません。心は不可逆なんだと思います。

なぜそうなったのか?

こういうことはよく言われていることですが、どうして人間は歳を取ると保守的になっていくのでしょうか?

人のことは分かりませんけど私のことだけ考えてみると、ひとつには「肉体的活動の低下」はあるのだろうと思われます。歳を取ると筋肉が落ち体力が落ちます。筋トレをしても運動をしても、若い頃のように素直に身体は反応してくれません。

何をするにも体力を意識し始め、極端な話アニメや映画をまとめて観るのにも疲れを感じたりするようになります。

でもまぁ、これはどちらかと言うと言い訳めいた話。

「家族など守るものが増えるから」とか「会社などでそれなりに重量な役職になっていくから」とかという話も良く聞きますが、これらも同じようなカテゴリに属するものでしょう。

私が考える最も「行動を縛っているもの」とは「溜まっていく知識」だと思っています。

知識と言うより経験かもしれません。

40年も生きていると、10代20代には想像もできなかった色々な経験をすることになります。良いこともありますし、もちろん悪いこともあります。楽しいことも辛いことも愉快なことも不愉快なことも笑えることも泣けることも。

そういう経験を積んでいく中で「AをするとBになる」みたいな方程式が、経験則として積み上がっていきます。本当はAをしたからBに必ずしもなるわけじゃない。多くの場合はそうであってもCやDになることもある。

でも自分の経験ではBだったし、他人を見ていると概ねBだった。だからAをするとBになる。

そういうものが積み上がっていく。

そうなっていくと人生はどんどん「答えの見えてしまうゲーム」になってしまう。

新生活とは

新生活にドキドキするのは、そこにどんな生活が待っているのか分からないから。今までの生活や経験では味わえなかったことが体験できると信じているからこそ、新生活という言葉は甘美な響きを持っているのではないでしょうか。

そういう意味では、今は昔より新生活に対する期待度が低い時代なのかもしれません。

昔は知識を得る手段が限られていました。何かを知るには本を読む必要がありましたし、それは電子ではなく紙に限られていたので、書店で買うか(もしくは古書店)図書館で読むかという手段しかありませんでした。

だから多くの人は、自分が今持っている知識と経験だけで生きていくしかなく、新しい生活に心踊らせることが多かったのではないかと思うんですよね。

ネットが最早インフラ以上の価値観を持つようになった今では、あらゆることがデータベース化されていっています。知りたいことは3分もあれば分かりますし、誰かの経験はあふれるほどあちらこちらに散乱しています。

「AをすればB」はそれを経験していなくても、ネット上に書いてあります。極端な話をすれば、人生は生まれた瞬間に答えの見えてしまったゲームと化したと言ってもいいのかも。

これは別に今のネット社会を批判しているわけではありません。何より私自身がそれに毒されていると感じたんですよね。自分自身が「AをすればB」という経験以上に、ネットであれこれ知った気になっていると感じたんです。

当然ですが、ネットのない時代の方がよかったという懐古主義でもありません。ネットが発展してきた時代をリアルタイムに生きてきたことに、本当に感謝していますしね。そもそもこの文章もネットがなければ、誰の目にも触れなかったでしょうし。

まとめ

私たちはネットによって多くのことを低コストで素早く手に入れることができるようになりました。

でもそれはあくまでも「ひとつの例」であることも忘れてはいけないと思います。

例えば数学だったり歴史だったりという「知識」は、どこでどういう手段で知ろうがそれは正しい知識です。1+1は数学的には2であり、他の答えはあり得ませんから。

ただ人の生き方や経験、悩み、考えなど、本当は答えがない事柄、もしくは人により答えが変わってくる事柄もあります。そういうことをネットで「知った気」になるのは、本当は危険なことなのかもしれません。

誤解を恐れず言えば「世の中には知らない方が幸せなこともある」んですよね。

知らないからドキドキするし、知らないからこそできることもある。

知ってしまえばそういうものかと納得するけど、小さくまとまってしまう。行動が縛られてしまう。

何が言いたかったかと言うと「40過ぎたから」と言い訳するのは間違いかもということと、少し身体を鍛えようかな(≒ダイエットしようかな)と思ったということです。

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