「小説を書く才能」とは一体何なのか?

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こんばんは、しろもじです。

「君、才能あるね」

こんなこと言われたことありますか?

一般的には「おだて」として使われることが多い言葉で、仕事をしている時、部下をおだてて上手く乗せるのを得意とする上司が使ったりします。

かく言う私も、若い頃何度か言われたことがあります(笑)。

でも「才能」って一体何なのでしょう?

「持って生まれたもの」とか「ない者はある者に絶対勝てない」とか「枯れることもある」とか、才能を巡っては色々な言葉がありますが、案外ふんわりとした言葉ではないでしょうか。

ここでは「小説を書く才能とは?」というテーマについて考えてみたいと思います。

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そもそも才能とは?

「才能」と一言に言っても、色々ありますよね。

上に書いたように「持って生まれたもの」という解釈で言えば「血筋」などの遺伝的要素が絡んでいるようにも思えます。

つまり「先天的要素」と言えますね。

これがあるのかないのか、という議論では、確実に「ある」ということになるでしょう。

特に運動神経が重要となるアスリートの世界では、二世の活躍が目立ったりしていますし、人間ではありませんが、競走馬の世界では「血統」は重要な要素になっています。

 

では、肉体的ではなく頭脳的なことではどうなのか?

これもある程度はあるのだと思います。

ただ、現段階では脳の仕組みが完全に解明されているわけではありませんし、肉体的要素に比べると後天的なものが影響することが多いと考えられますので、その比率は低くなると、私は思っています。

 

脳は神経の繋がりによって、記憶したり、考えたりすることができると考えられています。

それならば、通常は「その人の頭の使い方次第」で変わってくるものではないでしょうか。

20代を過ぎ、30代にもなると、人間の脳細胞は死滅していくだけ、という話も聞いたことがありますが、実際には神経の繋がりは常に変化しているものであり、使い方如何でいかようにも変えていくことができるものだと思います。

 

ただ、幼少期の方が吸収しやすいのは間違いないでしょうから、小さい頃から文字に触れていた人の方が、才能を伸ばすチャンスはあるのかもしれません。

小説を書くことを勉強する?

後天的な努力で才能を伸ばすことを「勉強する」と言いますね。

知識を蓄えるだけの勉強もそうですが、数学的な思考や、物事の考え方を学ぶことなども、勉強に入るでしょう。

では「小説を書くことを勉強する」というのは、どういうことでしょうか?

 

私は基本的には「書くこと以外にない」と思っています。

例えばプロットの創り方を学んだり、ストーリーの展開の本を読んだり、文章作法を知ることが無意味だとは言いません。

でも、それは最低限のことを知っていれば良いのだと思います。

「小説を書くことを学ぶ」目的は「小説を書くこと」です。

学ぶだけでは、小説は書けません。

上手くなくても、小説を書き続けることが、一番の勉強方法だと私は思っています。

 

ただ、前にもお話ししたと思いますが、1作書いたら何かを得るくらいでやった方が良いのかなとは思っています。

野球で素振りをする時、目的は「ヒット(もしくはホームラン)を打つこと」です。

スイングのビデオを見たり、技術書を読み込んだりすることは大切ですが、それだけでは打つことはできませんよね。

一方「がむしゃらに振りまくっていれば、いつか打てるようになるのか?」と言われれば、そうではないでしょう。

理想は、理論をある程度知り、それをやってみて修正していく、という手順です。

 

だから小説も「ただたくさん書けば良い」というわけじゃないと思うんですよね。

そこまで徹底的に読み返さないでも良いと思いますが「ひとつふたつ位は得られたね」と思えないと、効率は落ちるものだと思います。

その上で才能とは?

 なんだか話が変な方向に行きかけていますが、その上で私が「才能とは何か?」を考えたことは以下の通りです。

小説だけに限らず、色々なことに言えると思います。

目標を決められる

まずは「目標設定」。

どんな目標でも良いとは思います。

壮大なものじゃない方が良いでしょう。

「小説を1日◯◯字書く」

「◯◯日には、小説を完成させて、このコンテストに応募する」

こういうのですね。

「◯◯賞を獲る」とかは目標とは言いませんよ。

それは夢です。

「とにかくがむしゃらに頑張る」も駄目です。

 

目標は具体的で、現実可能で、測定可能なものでないといけません。

逆に「1日10文字書く」みたいなのも簡単すぎて駄目です。ちょっと極端ですけどね(笑)。

 

だから、才能とは「現実可能なギリギリを見極めて、目標を設定できること」だと思います。

決めた目標を達成できる

決めた目標は達成できないと意味がありません。

ここは意地の世界になってきますが、決めたらやるというのも才能だと思います。

よく「意思が強い弱い」と言われますが、私は意思の強さだけではないと思っています。

 

自分で決めた目標を達成できない人を見ていると「計画性がなかったり、先延ばしにすることが多い」ことがあります。

「ちょっと体調が悪かったから」と言う人もいます。

上の「目標を決められる」にも関わってきますが、その辺りも勘定に入れて計画を立てるべきなのです。

計画を達成できない人は、たいてい計画を達成する気がないか、達成したことがないかのどちらかです。

小さい達成を続けていくこと。

それを決められるのもひとつの才能でしょう。

たくさん書ける

そもそも「こういうふうに小説を書けば、大ヒット間違いなし」というものは存在しません。

文章の上手さや、ストーリー展開の妙、魅力的なキャラクターなど、小説を成功させる要素はたくさんありますが、もうひとつ大切なこともあると思います。

 

それが「運」です。

 

小説ではありませんが、仕事を通じて思ったことは「運って思っている以上に大切だ」ということです。

職場にもよるかもしれませんが、そこにいる人たちに「大きな差」ってそれほどないんですよ。

時に、驚くくらい優秀な人間もいたりしますが、完璧な人間は存在しません。

どれほど優秀な人間でも、どこかしらに弱点はあります。

運というのは、その弱点がたまたま注目されず、長所に光が当たった瞬間のことを言うのだと思います。

 

光を当てるのは、当然周りの人間です。評価する側ですね。

会社では上司や同僚になるでしょう。

小説では、読者や書籍編集者でしょうか。

その人の良い部分を適切に評価してくれる人が、運良くいるという状況で、成功が生まれるのだと思います。

 

しかし、運というのは「待っているだけのもの」でもないと思います。

運を引き寄せるという言い方がありますが、これは「その場にいる」ということです。

小説で言えば「評価してくれる読者、編集者の目にとまる」ということです。

そのために必要なことが「数」です。社会人では「年数」になりますが、小説では「作品数」が、これに当たります。

 

例えば、超優秀な会社員がいたとしましょう。

じゃ、その人が入社5年以内に、社長になれる可能性はあるでしょうか?

少し極端な話かもしれませんが、そういうことです。

小説でいうのならば「1作2作書いたくらいで、ヒットできるのか?」ということですね。

中にはそういう人もいますが、一般的にはそんなわけがありません。

 

だから、とにかく書くこと。書き続けること。

これが大切だと信じています。

まとめ

かなりぼんやりした文章になってしまいましたが、結局のところ「才能を測定する術はない」わけです。

もしあれば、コンテストなんかやらずに、とっととそういうことをすれば良いだけですからね。

 

また、上でも書きましたが「ヒットする小説を書く方法論」もありません。

この前、AIが小説を書いたっていうニュースが流れていましたが、AIが書ける小説は過去のヒット作から分析したものになります。

人間がそこで勝負しようとすれば、いずれ将棋やチェスのように負けてしまうでしょう。

 

でも、小説というものは自由なものです。

作法や「こうしなければならない」と言われたりもしますが、最終的には「売れたものが正解」です。

しかし、一方で「良いものが売れるわけではない」という身も蓋もない現実もあります。

そこを打破するには「数」。これしかないと思います。

 

打席に立たないと、ヒットは絶対に打つことはできません。

三振して笑われても良いじゃないですか。

ボテボテのゴロを打ってしまって、バカにされても構わないと思います。

打席に立ち続ければ、いつかヒットが打てる日が来るかもしれません。

諦めて、裏庭で素振りだけする日々になってしまえば、そこで終わりです。

 

人の評価など恐れずに、打席に立ち続けましょう!

 

……と言う感じでいかかでしょうか? 駄目?(笑)

また、考えてみて、気づいたことがあったら、記事します。

 

今日も最後までご覧いただきまして、ありがとうございました!

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