自分のことは自分で想うという話|『冒険者あがりの魔王さまは、仲間たちと優しいダンジョンをつくりたい!!」第34話投稿のお知らせ
こんばんは、しろもじです。
『冒険者あがりの魔王さまは、仲間たちと優しいダンジョンをつくりたい!!』の第34話「姫のやりたいこと」を小説家になろうに投稿しました。
今日は最近特によく考えること「自分と人のこと」についてのお話です。
結局自分のことは、自分が一番心配しなくちゃいけない
当サイトの記事でも度々書いたことなのですが「他人の意見を気にしすぎてはいけない」と、最近特に想うんですよね。
そんなとこを書くと「気に入らないことを言われたのか?」とか「自分の思い通りにならないことは無視しろってこと?」と思われるかもしれませんが、そうではなくて「良い意見であっても悪い意見であっても、気にしすぎてはいけない」ことを言いたいわけです。
例えば誰かが「あなたの小説は素晴らしい!」と絶賛したからといって、急にあなたの小説が素晴らしくなるわけじゃないですよね? 逆に言えば「つまらない」と言われたからといってつまらなくなるわけでもありません。
でも私たちはついつい悪い意見が真実であるかのように振る舞ってしまいます。
私もそれなりに長いこと生きてきましたが、その経験から学んだことに「他人の言っていることは、大抵の場合適当なことが多い」というのがあります。
個人的なことで恐縮なのですが、過去に一度大病を患ったことがありました。当然、色々な人が「大変だねぇ」「大丈夫?」と心配してくれたのですが、それも最初だけ。時間が経過すると共に減っていき、中には「まだ治らないの?」という人まで出てくるようになってきました。
それを薄情だと言うつもりはありません。
多分立場が違えば、私も同じことをやったと思うからです。そのとき分かったのが「結局自分のことを一番知ってて、自分のことを一番心配できるのは、自分だけなのだ」ということです。
誤解されそうなので補足しておきますが、中二病のように「他人は信用できねぇ!」と言っているわけじゃないんですよ。とどのつまり、人間ってのはそういうものなんだってことです。
自作の小説の意見を聞く姿勢は大切だが
自分で書いた小説を簡単にWEBで発表できるようになり、同時に簡単に感想を聞ける時代になりました。小説であれブログであれ、何かを発表すれば何かしらのリアクションが返ってきます。
ポジティブなものもあればネガティブなものもあるでしょう。適当に書いているものもあれば、親身になって書いているものもありますよね。
例えば「展開が遅くてつまらない」と書かれたとしましょう(実際に書かれたわけじゃないですよ)。もしそれが自分でもそうだと思っていたのならば、それは疑問の裏付けになるかもしれません。でも自分では「そうじゃないと思うんだけどなぁ」と思っていた場合「そうじゃないと思うけど、読んでくれた人がそうだと言うのならそうなのかも」と思うのは危険だと思うんですよ。
前者の場合は自分が介入していますが、後者は人の意見を丸呑みしてるだけです。
「自分の行動は自分で決めるべき」というのはほとんどの人が賛成してくれると思いますが、それなら後者を選択するのは問題がある行為だと言えそうです。
私ごとで言えば、基本的にはどのような意見もウェルカムな姿勢です(のつもりです)。カクヨムにしても小説家になろうにしても、ブログにしてもTwitterにしても、滅多なことではブロックなどは致しません(滅多なこととは、根拠のない誹謗中傷など)。
「意見は欲しい。でも決めるのは私だ」と思っているんですよ。
先程も書きましたが「自分を一番想っているのは自分」なんですよね。同様に「自分の創作物において、一番の決定権があるのも自分」と言えるのではないでしょうか?
大体、人の創作物にコメントを書くときに「本当にこの小説を良いものにしたい。作者のためになりたい!」と思って書くことは、滅多にないと思われます。大抵はオブラートに包みながら、それっぽいことを書くことが多いのではないでしょうか。
その前に意見を書くことすらしないのかもしれませんね。
それでも誰かと通じ合いたい
ただこれはあくまでも論理的に考えれば、の話であって感情的に言えばそんなに簡単なものでもないと思われます。
自分のことを分かって欲しい。自分の苦しみを理解して欲しい。自分のことを認めて欲しい。
そういう感情は人間が持つ根源的な欲求なので、完全に否定することは難しそうです。
しかし現実問題としては、特に社会に出てからの人間関係は多かれ少なかれ「打算抜きに」とは行かず、どうしても計算しながらのものになりがちです。だからこそ「自分のことを分かってくれて、我が身より自分のことを気にかけてくれる人」を求めてしまうのではないかなぁ、と思ったりするんですよね。
私が『冒険者あがりの魔王さま』で書きたいのは、そういう主人公です。『優しいダンジョン』というのは、ただ単に馴れ合ってヌルい場ではなく、そういう主人公を中心とした舞台なんですよ。
「現実にはなかなかないけれど、創作の中なら」と思っちゃうわけですよ。
というか、創作というのはそういう要素があるものですけどね。
まとめ
もちろん、この記事の意見も「私の意見」であって、お読みいただいているあなたの意見ではありません。
先程書いたように「意見は素通りさせるのではなく、自分がそれをどういうように扱うか決める」のが大切です。「読むだけ時間の無駄」と思うもよし「自分はそうは思わないけど」と反対意見を考える足がかりにするもよし「ステキな記事。しろもじさん抱いてっ!」と思うもよしです(メール下さい)。
もちろん実社会でも同じことです。他人に何か言われてカッとなったり、悲しくなったり、楽しくなったりするのは、人間ですから仕方がありません。感情を持った生物はそういうものです。
でも、そこから「でもそれは本当に真実なんだろか?」と考えることができるのは人間だけの特権です。
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