地の文について考えてみる回|『きみとぼくのダンジョン再建記』第77話投稿のお知らせ

小説投稿記カクヨム

こんばんは、しろもじです。

『きみとぼくのダンジョン再建記』第77話「治癒魔法が効きません!」をカクヨムに投稿しました。

前回の投稿記で「先が見えてきたので随分楽になった」と書いたのですが、今週は思わぬほど苦戦しました。

ここまで書いてきて、流石に70話も書くと「あれってもう書いたっけ?」みたいなものも出てきますよね(ますよね?)。

で「どこに書いたっけ?」「どういうふうに書いたっけ?」「そもそも書いたっけ?」みたいなので頭がグチャグチャになりかけたので、改めて一から読み返してみたんですよ。

あまり意識していなかったんですが、気がつくと23万字もあって読むのも一苦労でした。

読み返して「書いたっけ問題」は片付いたのですが(多分)、ふと思ったことがありました。

「なんか説明くさいパートが多いな」

いわゆる「地の文」には「説明」と「描写」があると思うんですが(あくまで個人の感想です)描写は「今起こっていることを書く」のに対して説明は「物語の謎や背景などを書く」ことで、どちらも小説には欠かせないものです。

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地の文について考える

とは言え、昨今では「チャットノベル」というものも流行りつつあり、あまり長くてくどい地の文は嫌われる傾向にあるように思われます。

なのでできるだけそういうのを減らしていきたいわけですが、如何せん70話も超えてきて物語も終盤に入ってくると「あれも説明しなきゃ、これも言わなきゃ」ということがたくさん出てきます。

それをできるだけ溜めすぎず分散させようとした結果「説明が随所に現れる」という、ある意味どうしようもないことになっているような気がしてきました。

「これをどう解消すべきか?」というのをずっと考えて、最も簡単そう、かつ私の頭程度でも思いつける解決方法が「会話文の中で説明すればいいんじゃね?」というもの。

つまり二人以上の登場人物の会話のやり取りで、地の文で書くべき箇所をフォローしていけばいいじゃないかということですね。

これは漫画っぽい手法だったりしますよね。

「なにぃ、真犯人は◯◯だったのか!?」みたいなのって、普通の会話ではあまり言わないセリフですが、敢えて言わせることで読み手に分かりやすくしているようなやつです。

もちろんWeb小説でも多く見られそうですし、ライト寄りの小説なんかでもちょくちょく見かけたりしますので、新しいわけでもなんでもないのですが。

ただ「地の文が悪なのか?」と考えると、もちろんそうではないとも思います。

一般文芸の小説なんかでは、地の文だらけのものも多いわけですけど、そういうものでもスラスラ読めるものも数多く存在しており、そういうことを考えると悪いのは地の文ではなく「読むスピードを遅くさせる要因」なのかなぁとも思ったり。

映画やアニメだと自分に入ってくるスピードは一定(倍速で見ない限り)なのですが、小説の場合は人により文章によりそれぞれ違います。

難解で読みづらい文章の場合、読むスピードが遅くなったり、何度も読み返したりしなくちゃならなくなり、そういうのがいわゆる「ブラバ(ブラウザバックのこと)」に繋がるのかもしれません。

私の理想は「地の文だらけなんだけど、なんか先へ先へとどんどん読めちゃう小説」です。

でもそれはなかなか難しいものですよね。

会話文もそうかもしれませんが、地の文を最も簡単に読みやすくする方法は「一文を短く切る」ことだと思います。

特にWeb小説などを見ていると「立ち上がる」「歩く」「手に取る」などのひとつひとつの動作を、それぞれ一文で区切りながら書いているものを多く見るような気がします。

まるで昔のRPGのコマンドのようにも感じるのですが、その方が読み手によっては読みやすく「絵」を想像しやすいのかもしれませんね。

しかし書き手としての私は、それに頼らず「長い文章でもスラスラ読める」というものを目指してみたいなぁと思って……はいるんですけど、如何せん能力がついてきていない気もします(笑)。

話を戻しますと、そういうことを考えてて「これはいけない。修正しなくちゃ」と思った次第なのですが、文章をこねくり回した結果、今回は結局どうすることもできませんでした(つまり元に戻した)。

この辺りは「要練習」になりますねぇ。修行です。

修行というと辛そうなイメージですが、好きなことならそれほど苦になることもないので、そういうのが創作の楽しさとも言えそうですね。