『きみとぼくのダンジョン再建記』第79話投稿のお知らせ

小説投稿記カクヨム

こんばんは、しろもじです。

カクヨムに『きみとぼくのダンジョン再建記』第79話「本当なんだ」を投稿しました。

今回は過去編になります。

今までチラッチラッと嫌らしく見せてきた部分の解明編とも言えますね(笑)。

過去編は事実を淡々と書いていく方式なので、三人称形式で小説というよりは叙述という感じでしょうか。

こういう書き方は(面白いかどうかは別として)結構好きなんですよね。

好きというより「書きやすい」と言った方がいいのかもしれません。

スラスラ進むので、いくらでも書けてしまいそうです。

でも過去編は今回と、次話の途中までで終わりです。

そこが少し悲しい部分です。

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趣味の細分化と深化の話

「好き」というキーワードが出てきましたので、それについて考えてみました。

自分自身の「好き」については『本当に好きなこと、とは何だろうか?』の記事でも書いたことがあるので、今回は色々な人の好きについて。

以前どこかで「最近は趣味が細分化されてきた」というようなことを書いた気がします。

確か「昔は娯楽も少なく、メディアもTVや雑誌くらいしかなかったから、みんなで楽しむというのが多かった」と書いた気がします。

TVも一家に一台から一人に一台になり、PC、携帯電話、スマホとデバイスがよりパーソナルなものへと変わっていきました。

そうなってくると「自分が見たいものだけを見る」ということになってきます。

またPCとインターネットの普及により、情報は一方的に受け取るだけではなく発信することも手軽にできるようになってきました。

つまり情報の流れが「大手のメディアから多くの人々に一方的に流れる」形から「大小様々なメディアから双方向に流れる」形へと変化していったというわけですね。

結果的に個人が受け取ることができる情報の量は、以前とは比べ物にならないほど増えてしまいました。

情報が増えたことと取捨選択が可能になったことにより、受け手はより情報をより好むようになってきたような気がします。

言い換えれば「好きなものはトコトン見るけど、そうでもないものは全く見ない」という状態です。

例えばあるアニメにハマったとしましょう。

昔であればそのアニメにかけられる時間は、せいぜいもう一度見返すか雑誌などで組まれた特集を読むとか、そういう程度でした。

今ではネットでアニメを検索すれば、関連したコンテンツが山のように出てきます(ファンサイトや考察サイトとか)。

そういうものに時間を費やすことで、そのアニメには深く知ることができるようになる一方で、他のアニメを観る時間を失っているとも言えるのではないでしょうか?

話は変わりますが、先日実家に行ったときのこと。

実家では相変わらずTVが娯楽の主流です(最近はYOUTUBEやウェブサイトなども見てるみたいですが)。

で、母が「動物関連」の番組を観てたんですよね。

個人的は動物は好きですが、わざわざ番組を観るほどではありません。

自分の家では絶対に観ることがない番組でした。

でも番組を観ているときに、ふと「あ、このシーンって小説に書くと面白いかも」とか「こういう話って結構ありがちだけど、結末がこうだったら……」とか考えていたんですよね。

更にそういうことを考えている自分を後から振り返ると「あまり食わず嫌いはいけないのかもしれないなぁ」と思った次第です。

創作の糧は色々なところに転がっているから、自分が好きじゃない情報でも仕入れた方がいいこともある、ということですね。

ただ、これは創作のスタイルにもよるのかもしれません。

得意なジャンルがありトコトン掘り下げていきたい場合などは、むしろ他のジャンルなどに構わず好きなものを徹底的に深化させていく方がよいこともあるでしょう。

でも上の実家での話も別に「動物が主人公の話を思いついた」というわけではなく(当たり前か)番組に出てきたあるストーリーを見て「全く別のストーリーを考えた」ということなんですよね。

そう考えると、色々手を広げてみるのもたまには悪いことではない気がしてきます。

創作を趣味とする方、特に若い方は色々手を出してみるのもいい経験になると思います。

私も結構色々やって色々放り投げてきた結果、多くのお金と時間を失ったわけですが、そこで得た経験はやってなかったらなかったものです。

……という感じで、いい話的に終わらせようと思ったわけですが、まぁそれも含めて人それぞれだとも言えます。

「ワシは40年間、これだけをやってきた。他のことは何一つ知らねぇ」という生き方もカッコ良さそうですしね。