新生活。  なんて甘美な響きだろう。タクシーの窓ごしに映る見知らぬ風景。行き交うたくさんの車や人。大きな橋の下を流れる川。どこにでもあるチェーン店の看板でさえも、キラキラ光って見える。  私は見知らぬ土地で新しい生活を始めようとしていた。見るもの全てが新鮮で輝いていて、心をキュッと締め付けられるような感覚。でも、それは決して悪いものじゃなく、とても心地よいもののように感じられた。  やがてタクシーは閑静な住宅街へと入っていく。「ええっと、この辺だと思うんですけどねぇ」と運転手さんがキョロキョロ辺りを見回しながら言う。スマホの地図で確認すると、確かに目的地は近そうだった。  「ここで大丈夫です」料金を払い車を降りる。春の爽やかな、でもまだちょっと冷たい風が吹き抜けて、ブルッと身震いした。それでも、歩き出す私の足取りは軽かった。  新しい環境。新しい生活。始まる一人暮らし。それに……。  思わず顔に出てしまいニヤニヤしてしまう。ダメダメ、浮かれてばかりじゃいけない。気を引き締めていかなくちゃ。通りの角を曲がると、少し細くなった路地の先に大きなトラックが一台止まっているのが見えた。 「あ、もう来ちゃってる」  慌てて駆け出す。引っ越しのことを考えて、スニーカーで来ててよかったと思う。トラックの脇に立っていたお兄さんが、私に気づいてペコっと頭を下げてた。 「すみません、遅れちゃって」  少しだけ息を切らしながら駆け寄った私に、引っ越し屋のお兄さんは少し引きつった笑顔で答える。「いやぁ、それが……」  お兄さんはどう説明したものかな、とぼやきながら道路脇に建つ一軒のマンションに目をやった。  鉄筋コンクリート四階建て。クリーム色のおしゃれな外観。壁の一角には小さな出窓が整然と並んでて、別の面にはちょっと大きめのベランダも見える。一階部分にはオートロックはないけれど、そこそこ立派なエントランスまであって、その脇には緑の植え込みがきれいに刈り込まれていた。  私が大学に進学して、初めて一人暮らしするお家。それがこの『シャトーFujiyoshi』。|藤吉《ふじよし》、ってこの辺りの地名らしいんだけど、敢えてローマ字にしている辺りが少しオシャレ……なのかな?  一ヶ月ほど前に、お母さんと一緒に不動産屋さんを訪ねて決めた物件。って言っても、なんか行ったときにはもう決まってた。 「ね、琴美。このお家でいいでしょ?」 「えー、なんで勝手に決めてるのよぉ」 「だって、一日で決まらなかった困るでしょ? だから先に見ておいたのよ」  いつも段取りが悪いお母さんのセリフとは思えない。私は少しふて腐れながら、不動産屋さんの出してくれた資料を見てびっくりする。  築五年の比較的新しい建物で、中は六畳のフローリングの部屋がふたつ。加えて結構広いダイニングキッチンまであって、もちろんトイレとお風呂も別々。いや、これちょっと立派すぎない? そもそも家賃って……うわっ、高いっ! 「お母さん、ダメだよ。こんなの高すぎるよ」 「大丈夫よ、琴美。あなたはそんな心配しないでいいの」 「でもぉ。私、ワンルームでよかったのに」 「いいのいいの。お母さんを安心させて頂戴」  ん? なんか最後の一言が気になるんだけど。広い部屋に住むことが、なんで安心に繋がるの?  なんだか申し訳ないなぁ、と思いながらも、お母さんの「いいのいいの攻撃」に押されて契約。まぁ、そりゃ私はありがたいんだけどね。でも、いいのかなぁ。  そんな私の心配も、引っ越しの日を迎えることには期待と希望にすり替わってしまっていた。ずっと心に押し込めていた、なんとなーく感じてた嫌な予感。それが引っ越し屋のお兄さんの引きつった笑顔でむくりと頭をもたげる。  いやいや、考え過ぎよ、琴美。実は事故物件だったり、お隣がおおっぴらに言えない職業の人だったりとか、そんなことはあるわけないじゃない。  頭の中に広がりかける、いくつかの悪い妄想を振り払おうとしていたときのこと。引っ越し屋のお兄さんが「実は……」と話し始める。同時に路地の向こうから、少し小さなトラックがこちらに向かってくるのが見えた。更にカバンに入れてたスマホが賑やかな音で着信を告げてくる。  いいや、これは考えすぎじゃないかもしれない。 ーーーーー  新生活。  なんて言葉にはときめいたりしないし、別にどうってこともないとも思う。ただ、行きたかった大学が、たまたま県外だったわけで必然的に一人暮らしをしなくちゃいけなくなっただけ。  正直なところ、一人暮らしは面倒だとさえ思っている。料理も洗濯も掃除だって嫌いじゃないけど、かと言って好きでもない。まぁ掃除だけはちょっと好きかも。そんなふうだから、引っ越し屋のトラックの助手席で揺られている今でも、そんなに感慨深くなったりしない。  それにしても……地元からこんなに離れた土地だって言うのに、どこもかしこも似たような風景ばかりだ。コンビニ、ドラッグストア、スーパー、牛丼屋……どれも見慣れた景色だと思った。  途中、橋を渡っているときに見えた大きな川。あれだけはちょっと雄大できれいだったかな。  新生活への憧れもないわけだから、父さんが「|圭太《けいた》、住む部屋はどうするんだ?」って聞いてきたときも「うーん」と生返事を返してしまった。その二日後には「家、決めてきたぞ」と言ってたのには呆れたけれど、まぁ住めれば何でもいいし。  大学か……。  信号待ちをしているトラックから、通りを行き交う人を見ながら思う。そういや、あいつ。どうしてるんだろうな……?   |山手琴美《やまてことみ》。僕が小学校に入ったころに、ウチの裏手に越してきた一家の長女。僕と同級生、親も歳が近いということもあって、小学生のころはよくお互いの家に泊まったりとかもしてた。  中学生になると流石にそういうのはなくなったけれど、よく「けいちゃん、宿題見せて!」と家に押しかけてきたり、夏休みとかには家族ぐるみで旅行したりもしてて、それなりに交流があった。  僕と琴美の関係が変わったのは、高校生になってからだ。  県内の共学の高校に進学した僕に対し、琴美は今では珍しくなってしまった女子校へと進んだ。家が隣と言っても、面している通りが違えばなかなか偶然出会うということも少なくなる。  入学当初はときどき来ていたメールやメッセージも、高校初めての夏休みを迎えるころにはほとんど届かなくなってしまった。そんなわけで、すっかり疎遠になってしまった幼馴染。  彼女のことを思い出したのは、家を出るときに母親が「そう言えば、琴美ちゃんも大学に合格したそうよ」と満面の笑みで言っていたからだ。なんか、僕が合格したときよりも嬉しそうな顔をしてた気がして、少し気になってた。  琴美が大学を受験することを初めて聞いたのは、受験勉強を本格的に始めた去年の秋頃のこと。母が僕にそれを告げ「ね、どうせなら一緒に勉強したら?」と提案してきた。  人と勉強することはそれほど苦痛ではないけれど、かと言ってそんなに好きでもない。できれば自分のペースでやりたいから、という理由で僕はそれを断った。が、実際には、既に三年近くろくに会ってない幼馴染と今更再開するのが恥ずかしかったから、というのが本音かもしれない。  こんなことを言うと、僕が琴美に対してある種の感情を持っているのかと誤解されてしまいそうだけど、正直なところ僕自身も彼女に対する気持ちは分からない。小学生のころは「ほとんど家族」みたいな存在だったし、中学生のときは「ちょっと世話の焼ける妹」的なポジションだったような気がする。  高校に入ってからは、そもそもほとんど会っていないわけだから、どうもこうもない。まぁ受験に合格したと聞いて「よかったな」とは思ったし、ホッとしたもの事実だ。  でも、そこから連絡を取り合ったわけでもないし、僕たちは既に別々の道を歩いている。かつての幼馴染の今後の成功を祈ってる。って、ちょっとカッコつけすぎかもしれないけど、そんな感じ。 「あ、その角を右に曲がってもらえますか?」  スマホの画面を見ながら、ドライバーさんに伝えた。引越しシーズンということもあって、僕のようにほとんど荷物を持っていかない人間には、あまり人を割けられないらしい。僕と同じくらいの歳の青年が一人だけ家にやって来て、手早く荷物を詰め込むと「引越し先の地理に疎くて」と言い出した。  それなら一緒に行きましょうか、ということになり、こうして僕は助手席でナビゲート役を買って出ることになったわけだ。青年は「了解ッス!」と元気よく答えて、ハンドルを切る。小型のトラックはゆっくりと交差点を曲がり、小さな路地へと入っていく。  ここを少し進めば、教えてもらっていた住所のはず。どんな物件なのかは聞いていないんだけど、確かシャトーなんとかっていう名前だったはず。地図によれば、もうすぐそこだと思うんだけど……。  ふと画面から顔を上げた。一台の大きなトラックが止まっているのが見えた。その横に、どうやら引っ越し屋らしいユニフォームを着た青年と……あれ?  青年の隣に立って、カバンを漁っている女の子。  もしかして……琴美? ーーーーー  カバンに手を突っ込んで、スマホを探す。あれ、どこ? あぁ、あったあった。画面を見ると「お母さん」の文字。「応答」を押して電話に出る。「もしもし、お母さん?」  引っ越し屋さんの都合で、どうしても平日しか予約が取れなかったこともあって、お父さんもお母さんも「その週末には一度行くから」ということで、私は一人で引っ越しをすることになっていた。お母さん、確か仕事中のはずなんだけど……。 「あぁ、琴美? もう着いた? そう。それで……どう?」 「どう? って何が?」  「あー、まだなのね」  いや、だからもう着いたってば。どうも話が噛み合わない。「え? あー、その資料はね……ごめんね、琴美。ちょっと用事が入っちゃった。すぐかけ直すね」と言って、お母さんは電話を一方的に切ってしまう。ちょっと、どういうことよ?  私がスマホを見ながら困惑していると「あの、いいですか?」と引っ越し屋さんが声をかけてきた。 「あ、はい。ごめんなさい。何でしょう?」 「それがですね。さっき指定されたお部屋に行ったら、不動産会社の方がいらっしゃってまして」  あー、そう言えば、鍵の受け渡しとか部屋のチェックとかで来るって聞いてたかも。 「ええ。そうなんですが……。その方が言うには『契約者は山手さんじゃない』って言うんですよね」 「へっ!? 違う?」 「はい。ですから、お荷物を運び入れることもできなくて、困ってるんです」  そう言ってお兄さんは本当に困った顔をしていた。そんなはずはない。契約書は見てないけど、ちゃんとマンション名も部屋番号も事前に聞いている。カバンからメモを取り出して、それをお兄さんに見せると「あってますよねぇ」と首をひねる。  「ちょっと不動産会社の人と話してきます」エントランスに向かおうとしたとき。私の荷物が積んであるトラックの後ろに、もう一台少し小さなトラックが停車した。運転席にはちょっと頼りなさそうな男の子。同い年くらいかな?  引っ越しシーズンだから、このトラックもここに引っ越してきた人のものかもしれない。いや、そんな人のことを考えてる余裕はない。とにかく上に上がって話をしてこなくちゃ。部屋番号は確か……そう、402号室。四階かぁ、登るの大変だなぁ。  そこでふと、小さい方のトラックの助手席に目が行く。運転席に座っている男の子とは違って、こっちは私服。歳は同じくらいの……って、あれ? どこかで見たような……。  受験勉強のせい、というわけじゃないんだけど、最近視力が悪くなってしまってた。コンタクトも買ったのだけど、普段の生活はそれほど困らないし、いざとなればカバンには眼鏡が入っているから、今日は付けてない。  なんとなく妙な予感を感じて、目を細めてじっとトラックの助手席を見る。うーん……見えない。私は自分の状況も忘れて、トラックへと近づいていく。徐々にはっきりとその男の子の姿が見えてきた。  ワックスでキレイに整えられている少し長めの髪の毛。眠そうな切れ長の目に、キュッと結ばれている口。良いように言えば知的、悪く言えば仏頂面。体格は男の子にしては細身で、隣に座っている運送会社の子と比べるのがかわいそうなくらい……ってやっぱり、けいちゃんじゃない!?  私が「あー!」ってけいちゃんを指差してたら、あっちも「あっ」って顔で私を指さしてた。トラックのドアが開いて、けいちゃんが降りてくる。えっ、なんで? いや、こっちに来ていることは知ってるんだけど、でもなんでけいちゃんがここにいるの!?  実際、面と向かってけいちゃんの顔を見るのは……たぶん一年ぶり。まぁ会ったっていっても、あれは近所のコンビニでばったり出会って「あ、久しぶり」「よぉ」みたいな会話しかしてないんだけど。 「けいちゃん……だよね?」  確信はあるけれど、でも断定はできないような複雑な気持ちで聞いてみる。けいちゃんは相変わらず表情を変えずに「琴美? なんでここにいるの?」と答えた。それはこっちが聞きたいんだけど。  状況を飲み込めずポカーンとしていると、手に握りしめたままになっていたスマホがブルッと震えた。慌てて画面を見る。お母さんだ。 「もしもし?」 「あ、ごめんごめん。それで……会えた?」 「はい? え、ちょっとどういうこと?」 「だからぁ、着いたんでしょ? 住むところ。知っている人がいたんじゃないの?」  けいちゃんのことか! あぁ、そういうことか。けいちゃんと同じマンションにしたってこと? って言うか、それよりもちょっと聞きたいことがあるんだけど。  私が不動産屋さんが契約してないって、と言うと、お母さんは「あぁ、うん。契約名はけい君の方……つまり|新田《にった》さんの名前でしてるから」と、まるで「今日の朝ごはんはパンよ」みたいな口調で言う。  うん? どういうこと? ーーーーー  トラックがゆっくりと停車する。やっぱり琴美だ……よね?  僕が最後に琴美を見たのは確か……一年前。近所のコンビニでばったり会ったときのことだ。当時の彼女はあまりオシャレに気を使う子じゃなくて、そのときも中学校のときのジャージ姿で、僕を見るなり「あっ」って顔をしてた。だから「よぉ」「どうも」みたいな会話しかしてなかったんだよね。  でも今日の琴美は見違えるようだった。女の子らしい服装なのもそうなんだけど、軽くメイクもしているようで、以前の琴美とは違う雰囲気を醸し出していた。風になびく長い髪や、スカートからのぞく白く細い足を見て思わずドキッとしてしまう。  元々どちらかというと童顔な彼女だったけど、今日の琴美はどこから見ても年相応の女性にしか見えない。それにしても、琴美が私服でスカートを履くとは……。   あぁ、でも靴はスニーカーなんだ。ちょっと琴美らしくてホッとする。  ところでさっきから、なんか凄く……睨まれている気がするんだけど……。なんで、そんなに目つき悪いの? 運転席に座っている青年に「ちょっと待ってて下さい」と言って、トラックを降りる。  目を細めて、僕の方をじぃぃぃっと見ている琴美。あぁ、もしかして目が悪くなったの? 前はそんなことなかったと思うんだけど。近づいていくとようやく僕だと分かったのか「けいちゃん?」と聞いてくる。  そうだよ、と答えようとしたとき、琴美が「ちょっと待って」と手で合図してスマホを耳に当てた。「お母さん」とか言っているのを聞いて、あぁ琴美のお母さんから電話なのか、と理解すると同時に、昔お世話になっていたころのことを思い出す。  琴美の家に遊びに行っていたときのこと。一緒に行った旅行でのこと。高校に入っても琴美のお母さん――本人の希望で|姉《ねえ》さんと呼ばされてる――は、ちょくちょく家に遊びにくることもあって、よく顔を合わせていた。そういや、年末くらいにばったり町で会ったときに「けい君、受験勉強は順調? 結構難しい大学らしいじゃない」と言っていたことも思い出した。  ん……、そう言えば僕、|おばさん《姉さん》にどこの大学を受けるか言ってなかったと思うんだけど……。普段は面倒くさがり屋の父さんが、珍しく自分で部屋を探してきてくれたこと。出掛けに母さんが「頑張ってね」と意味深に笑っていたこと。僕が住む部屋に琴美が来ていること。  そこでようやく僕は全てを理解する。タイミングを見計らったかのように、ポケットに入れてあったスマホから着信音が流れてきた。 「もしもし、圭太か。父さんだ」 「父さん、僕をはめたね」 「おいおい。開口一番、何なんだよ」 「でも、そうなんでしょ?」 「考え方次第では、そういう見方もできなくはない」  ――認めた。  父さんは「まぁ、なんだ。上手くやれよ」と訳のわからないことを言って、一方的に電話を切ってしまう。なんだよ、上手くって。ため息をついて顔を上げると、琴美が泣きそうな顔をしながら僕を見ていた。どうやらこちらはまだ、事情を理解するには至っていないようだ。  僕は琴美に「ついてきて」と言って、マンションへと入っていく。階段を登って四階へ。廊下へ出ると、スーツを着た中年男性が小さなダンボール箱を抱えて立っているのが見えた。 「あぁ、新田さん? お待ちしてましたよ」  瀬川と名乗るその男性は、不動産会社の営業マンらしい。名刺を僕に手渡すと「さ、とりあえず中へ」と部屋のドアを開けて入るよう促す。手招きして琴美も呼び、僕らは部屋へと入っていった。  玄関を入ると短い廊下。右手に二つのドアがあり、手前がトイレで奥がお風呂。湯船はそんなに広くないけど、シャワーもあるし快適そうだ。左手には木製のドアがひとつ。それを開けると、ちょっと広めのダイニングキッチン。小さめながらカウンターキッチンになっていて、ちょっと驚いた。  その奥には更に二つのドア。それぞれ六畳の洋間で、フローリングの床に真っ白の壁紙がまぶしい。それぞれの部屋の間には小さなクローゼットもあった。ちょっと狭いけど、まぁ十分かな。  ベダンダにはリビングから出られるようになっていた。実家のベランダは奥行きが狭い代わりに横に長くなっていたけど、こっちは横が狭く奥行きは広い。ちょっとしたテーブルくらいなら置けそうなほどだ。  なるほど。確かにこれは、一人で住むには広すぎる部屋だ。瀬川さんとざっと部屋の傷や状態などを確認したあと、封筒を手渡された。注意事項とか、連絡先とか色々な資料が入っているらしい。あ、そうそうと言いながら、ポケットから鍵を取り出す。  「二つしかありませんから」と、僕に手渡した。「無くさないようにして下さいね」営業スマイルを見せながら「何かあったら連絡下さい」と言い残し、そそくさと出て行ってしまった。  どういう経緯かは分からないけど、どうやらここに琴美と一緒に住むことになったらしい。ところが琴美は、状況をさっぱり飲み込めていないのか、不思議そうな顔で部屋の中をキョロキョロ見ている。  「広いよねぇ。一人で住むにはもったいないよねぇ」と的はずれなことを言ってる。どうしたものかな、と悩みながらも、遠回しな言い方だときっと琴美は分からないとも思う。ここははっきり言った方がいいのかも。 「琴美、あのさ」  僕は相変わらずキョトンとしている琴見に話しかけた。 ーーーーー  けいちゃんは元々まじめな性格だけど、ときどき冗談だって言うことはあった。そういうときはたいてい真面目な顔をして「琴美、聞いてくれ」なんて前置きしてから言うから、いつもそのギャップがおかしくて笑ってた。冗談の方はそんなに面白くないんだけどね。  そんなけいちゃんが、まじめな顔で「あのさ」なんていうものだから、何? この状況で冗談言う気? ってか、再会して間もないのに、一体どんなギャグを披露しようっていうのよ!? ってちょっと呆れてしまった。  ところがけいちゃんは、どこかオチなのか分からない話を延々と続けている。「父さんにはめられた」とか「きっと琴美の両親もグルだ」とか、一体何の話?  あまりにもとりとめのない話に、私が「けいちゃん、ちょっと落ち着いて」って言ったら「僕は……お、落ち着いている……つもり」とぼそっと答えた。珍しい、けいちゃんが動揺している。  まるで珍しいものを見たような感覚になっていると、けいちゃんはコホンと咳払いして「だから、僕と琴美がここで一緒に暮らすことになったんだ」って言うの。いやぁ、けいちゃん? 久々に会ったんだから多少は甘く採点してあげたいところだけど、それはあんまり面白くないよ? 三年経っても、全然ジョークのセンスは上がってないんだね。  ところがけいちゃんの顔はまじめなまま。んんー、どういうこと? もしかして、冗談じゃなくって、本当の話ってこと? さっきなんて言ってたっけ? けいちゃんと私が……一緒に……暮らす? 「あーなるほどぉ……って、ええええええええええ!?」  思わず出してしまった大きな声が、ガランとした部屋の中でこだまして慌てて口を閉じる。いや、でも、ええ? 一緒にってどういうこと? なんで? え、けいちゃんもしかして……私のことを……?  うっかり、けいちゃん「も」って言っちゃったけど……そう、私、山手琴美は、幼馴染であるけいちゃんこと新田圭太が……たぶん好き。断定できないのは、中学生のときには確かに好きだったけど、それから三年間も離れているうちに、自分の気持ちがよく分からなくなったんだよね。  だからてっきりけいちゃんも私のことが好きで「琴美、大学に行ったら一緒に暮らそう」みたいな展開なのかなって、一瞬浮かれたりもしたんだけど、よくよく考えたらけいちゃんと同じ大学に進むことを決めたのは私の方。  辻褄が合わない。  って言うか、どうもけいちゃんは私がここにいること自体、意味が分かってないようで「琴美もこっちに来たんだね。進学? 就職?」とか言ってるし。進学です。大学もけいちゃんと一緒なの、って説明してたら、後ろから「あのぉ」って声を掛けられて中断。  引っ越し屋のお兄さんが二人「お荷物、運んでもいいでしょうか?」って、ちょっと困った顔をしてた。慌ててけいちゃんの顔を見る。コクンとうなずいてた。え、いいの? 荷物、入れちゃっても。でも「待って下さい」とも言いにくい。なので、同じように首を振る。  ほっとした表情で荷物を運び入れていくお兄さんたち。とりあえず洗濯機や冷蔵庫の大型の荷物だけは所定の場所に置いてもらって、後のものは適当にリビングキッチンへと運んでもらう。広かった部屋が荷物で埋まっていく……って、けいちゃんの荷物それだけ?   私の半分以下ほどの荷物は、ダンボールに入れられたものばかり。え、服や本とかしか持ってきてないの? 冷蔵庫は? 洗濯はどうするつもりだったの? けいちゃんは少し顔を歪ませて「だから、後で買えって言ってたのか」とポツリと言う。  引っ越し屋さんは流石はプロで、凄く時間が掛かるかなと思っていたのが、ものの三十分ほどで荷物を運び入れてしまった。荷物の確認を済ませて書類にサインをすると、お兄さんたちは疲れも見せず元気に帰っていった。  そして部屋には私とけいちゃんだけが取り残された。 ーーーーー  よくよく考えれば、実家で引っ越しの準備をしていたときにおかしなことは起こっていた。自分の持っていく荷物を梱包しながら「そういや、冷蔵庫とか電子レンジとか、そういうのどうしよう?」って父さんに聞いたとき「そういうのは邪魔になるから、あっちで買いなさい」って言っていた。  そのときは、その通りだなと思っていたけれど、考えてみれば買って現地に送ればいいだけじゃないか。わざわざ買いに行く手間を考えれば、余裕のある内にやっておいた方がいいに決っている。  つまりそれは「ひとつあればいいだろう」ってことだったんだ。まぁ、それをあの時点で察しろって言う方が無理があるとは思うけれど。  元々、僕の両親と琴美の両親はとても仲がよかった。だからお互いの家を行き来したりもしてたんだけど、別々の高校に進学してからは僕と琴美の接点は少なくなっていった。それでも両親たちの交流は途絶えたりはしていなかった。  小学生のころ、琴美の父親に「大きくなったら、琴美をお嫁さんにもらってやってくれな」と言われたことがあった。それに対して僕の父さんは「いやいや、今どきは『ウチの息子をお婿にもらってくれ』っていうべきじゃないか?」って言って、二人でガハハと笑っていた。  僕は子供心に呆れながらそれを聞いていたんだけど、何となく「うん」って肯定していた気がする。まさか親たちは本気でそれを信じていて、着々と実行しようとしているというのか?  そんな馬鹿な。僕と琴美の気持ちも考えないで。いやまぁ、前に「うん」って言ったのは事実だけど、そんな小さいころに言ったことが今でも有効だと思ってるのか? それに琴美の気持ちだって……って、そう言えばさっき琴美は「けいちゃんと同じ大学」って言ってたな。  同じ大学? なんで俺の行く大学を知ってるんだ? 父さんか母さんが、琴美のおじさんか|おばさん《姉さん》に言った? それで琴美が僕と一緒の大学に行くことを決めた……のか?  段々頭がこんがらがってきた。あれこれ詮索しても意味がないとも思った。いずれ両親がここへやってくる。そのとき全てを聞けばいいだけだ。  まずは「この状況をどうするか?」だ。  琴美はようやく状況を理解したようだったけど、それを受け入れることは別のようで、膨大な荷物の山の前にポカーンとした表情で突っ立っている。「とりあえず、さ」と話しかけると、ハッとした表情で「あ、え、うん」と僕の方へ振り向く。が、その目の焦点は合っておらず、余程動揺しているのかキョロキョロとせわしなく動いている。  いや、僕も相当動揺したけど、流石にそろそろ落ち着いてくれ。日が暮れるまで、ボケっとしているわけにはいかないだろう? 「そうだよね……うん、そうだよね!」  よかった。昔から琴美は、泣いたり笑ったり感情の起伏の大きな子だった。嬉しいことがあると驚くくらい上機嫌になるし、逆に悲しいことがあるとふさぎ込んでしまうこともあった。でも、その分切り替えも早い。 「じゃ、まずはどっちの部屋を使うか、だ」  ホッとした僕は琴美と一緒に二つの部屋を見比べた。リビングダイニングに接している二つの部屋は、部屋の作り、大きさ、収納の数などほとんど同じ構造になっている。唯一違う点は、左の部屋の窓はベダンダに通じていて、右の部屋は出窓になっている程度。  多分琴美は……右の部屋がいいって言うんだろうな、って思ってたら案の定そっちの部屋を指さして「こっちがいい!」って主張してた。  まぁそうだよね。昔から琴美は「出窓」っていうの好きだったもんな。実家の琴美の部屋にはそういうのはなくて、僕の部屋にはあった。僕の部屋に来る度に「いいなー、こんなの欲しいなぁ」とぼやいてたっけ。実際には窓は開けにくいし、外からの視線が気になるし、台風の日とか「壊れないかな」と不安になるしで、あんまりいいことばかりじゃないんだけど。  ま、僕はどっちでもよかったので、琴美の言う通りにしてやる。でも、素直に応じるのもシャクなので「ひとつ貸しだぞ」と、しょうがないなぁ感を出しておいた。それをネタにどうこうしようという気はないけど、……いざというときの保険みたいなものかな。  琴美はさっきまでの不安げな表情はどこへやら、上機嫌でダンボール箱を抱えて自分の部屋へと運び込んでいる。それにしても凄い荷物だな、大丈夫かな? そんなことを思いながらも、僕も自分の荷物を手にした。  案の定、僕があらかた部屋に荷物を運び込んだあたりで「けいちゃん……ちょっと……手伝って」と音を上げていた。「何をそんなに持ってきたの?」と聞くと「女の子には色々必要なの」ってぷーっとふくれていた。  「貸し、二つ目だぞ」と言って、ダンボールを抱える。ついでに、ということで電球をつけたりベッドや机の設置も手伝う。  琴美は荷物を整理しながら、元気になったり悲しそうな顔をしたりと、別の意味で忙しそう。そういうところ、ちょっと羨ましいなと思う。まぁ大変だとも思うけど。  空き箱を整理して「置いておいて」と言われたもの以外は大体終了。さてと、必要なものでも買いに行くか、と思っていると琴美が「お腹空かない?」と聞いてくる。  言われてみればそうかも。 ーーーーー  なんでけいちゃんと一緒に住むことになってるのかは、今でも全然分からないけど、確かにけいちゃんの言う通り、このままボケッとしてても何も解決しない。問題は一旦、置いておくことにしよう。  二部屋ある洋間を二人で分けて使おうってことになって、私たちはそれぞれの部屋を見比べてみた。そこで私が見たのは……出窓っ! 英語では「Bay window」……って言うらしい。映画とかで見た外国のそれよりもずっと小さいものだったけれど、ちゃんと出てるし、白い格子の枠もとってもオシャレっぽい! 「右っ、右がいい!!」  一瞬、自己主張しすぎかなって思ったんだけど、でもここは譲れないポイント。けいちゃんはこういうのに無頓着だから多分あっさり……って、なんか凄く考え込んでる。眉間にシワを寄せながら、アゴに手を当てて「うーん」と唸ってた。  結局、私の希望は受け入れられた。でも「ひとつ貸し」って何? なんかイヤラシイ想像してない?  そんなわけで鼻歌まじりで荷解きを始めたんだけど……おかしいな、こんなに荷物あったっけ? 手当たり次第に実家の部屋の荷物を詰め込んだけど、よく考えてみれば全部は要らなかったかも。  けいちゃんの部屋の様子をそっと伺うと、もうあらかた終わってるみたい。「ちょっと手伝って」って言ったら「要るものはこっちで買えばよかったのに」って呆れてる。痛いところを突かれて思わず「うっ」ってなったけど「そういうものなの、女の子は」って答えてごまかす。  でも、なんだかんだ言いながら、やっぱりけいちゃんは優しい。荷物を解きながら、昔のことを思い出す。  小学生のころは私と遊んでたせいで、けいちゃんよく友達にからかわれてたな。でも、全然気にせず私に付き合ってくれた。公園で転んで泣いてたときも家までおぶってくれたし、お気に入りの髪留めをなくして泣いてたときも一緒に探してくれた。  中学生になっても、よく宿題を見せてもらったりもしてたなぁ。一緒の高校には行けなかったけど、私が高校受験を安心して受けられたのもけいちゃんのおかげ。  一生懸命に荷物を整理してくれてるけいちゃんの横顔を見て、私はふと思う。けいちゃんは私のことをどう思ってるんだろ……。  って、けいちゃん、その箱はっ、その箱は大丈夫だから!! 「何が入ってるの?」って真顔で聞かないで。いや、その……した……下着だから。  けいちゃんは「あぁ、ごめんごめん」と、相変わらずの無表情で次の箱に手をかける。よく考えてみれば、いくら幼馴染とは言え、女の子の引っ越し荷物の箱を何の躊躇もなく開けるって、もしかして私のこと異性として見てくれてないのかな……?  なんてことを考えると、どこか寂しい気持ちになってくる。  いやいや、折角の新生活。初日から凹んでちゃダメでしょ。よし、気分が落ち込んだときは……食べるに限る! 「けいちゃん、お腹空かない?」  ちょっと考えたあと「そう言われればそうかも」って。お腹空いたかどうかも考えなきゃ分からない辺りもけいちゃんらしい。思わず笑ってしまう。 「じゃ、私が何か作るよ」  シャツの袖をまくってキッチンに立つ。そしてそこで止まる。電気ガス水道は、さっき不動産屋さんが「こちらで一括管理しますから」って言ってたので、もう使えるはず。冷蔵庫とかコンロは、お母さんが予め買ってくれたのを持ってきたので、それもOK。  でも肝心の食材がない。  唯一と言ってもいい特技である、料理の腕を振るうことができずに固まっていると「外に食べに行こう」って言ってくれた。そうだね、晩御飯は作るからね。外食ばっかりだと身体に良くないし、お金もかかるし。  身支度を整えて部屋を出る。出掛けにけいちゃんが「これ、琴美の分」って鍵を渡してくれた。そこで「けいちゃんと一緒に暮らすんだ」って実感が再び湧いてくる。部屋を吟味したり、荷物を整理したりと忙しくして現実逃避していたけれど、本当にそうなんだって思って、ちょっと怖くなる反面、凄く嬉しくもなる。  知らない人と暮らせって言われたら無理だけど、けいちゃんはよく知っているし。でも、お年頃の男女が一緒に住むっていうのは、やっぱりそれはそれでどうなんだろうとも思う。で、結局自分がどうしたいのかも分からなくなるので、やっぱりこの問題は棚上げにしておこうという結論になる。  同時に、さっきから何度も棚に上げたり下げたりしている自分が情けなくなってきた。その点、けいちゃんは凄いなと思う。こんな状況になっても動じているように見えない。確かに今どうこうできる問題ではないけど、私はそんなふうに割り切ることができない。  そんなふうに落ち込んでいた心も、麻婆豆腐の一皿でパッと元に戻るのが私のいいところかもしれない。  マンションの近くにあった、今どき珍しい昔ながらのアーケード付きの商店街。一番最初にあった中華料理店『|藤閣《とうかく》』。藤吉って地名からとってるのかな? 厨房で鍋を振るうおじさんと、接客をしているおばさんのふたりでやっている小さなお店。  はっきり言って完全に名前負けしている店構えだったけど、料理の味は本格中華って感じで凄く美味しい!  「ねぇ、この麻婆豆腐、美味しいよ。一口食べてみ?」  スプーンですくったお豆腐を差し出すと、けいちゃんは少し渋い顔。相変わらず、辛いもの苦手なの? 好き嫌いはダメだよ。 ーーーーー  目の前に突き出された麻婆豆腐を見て、思わず僕は固まってしまう。  十八歳にもなってこんなことを意識するのはどうかとも思うけど、それさっきまで琴美が口に運んでいたスプーン……つまり、間接……キス。  我ながら「子供かよ」と思うが、意識してしまうものは意識してしまうのでしょうがない。別にイヤっていうわけじゃない。どちらかと言うとやや潔癖症な傾向がある僕だけど、琴美とは幼馴染だし……まぁ、気持ち悪いとかそういうのはない。  ただ、琴美は気にしないのかな……という部分が引っかかる。意地悪そうな顔で「好き嫌いはダメだよ」って言っているけど、そういう問題じゃない。唐辛子はもう克服したんだ。  どうやら琴美は、そんな僕の気持ちが理解できないらしく「んー」と一層スプーンを突き出してくる。意を決して、パクっとそれをくわえる……うん? 美味しいな、これ!  確かに辛いのは辛いんだけど嫌な辛さじゃないし、口に入った瞬間香辛料の香りがぱぁっと広がって、辛さを包み込んでくれている気がする。正直、料理にはあまり興味がないし、麻婆豆腐なんて中華料理のチェーン店でしか食べたことがないけれど、どんな作り方をしたらこんな味を出せるんだろう……と気になるほど。  まぁ、そうは言っても「教えてくれ」って聞くわけにも……と思っていると、いつの間にか琴美がカウンター席に手を置いて、厨房にいるおじさんに「レシピを教えて」と頼み込んでいた。  おいおい、やめとけよ……。厨房に立つおじさんは一見「かたぎですか?」と聞きたくなるほどの風貌。僕は冷や汗をかく。おじさんは刺すような目で琴美を睨んでいたが、中華鍋を掴んだまま琴美に「入ってこい」とアゴで合図する。  苦笑いしているおばさんにエプロンを借りて厨房に立つ琴美。おじさんは相変わらずしかめっ面のまま、瓶に入った調味料を説明したり、包丁の使い方がなってないとか言っていた。  二十分ほど格闘したのち、おじさんにお辞儀をして琴見が戻ってきた。「教えてもらった!」と満面の笑み。初めてきた土地で、しかも初めて入ったお店で、いきなりレシピを教えてって訊くか、普通?  僕の方はヒヤヒヤしてたんだけど、琴美が「おじさん。常連になるから、もっと教えてね!」と言うと、おじさんの方も案外悪い気はしていないのか、ニカっと笑っていた。笑顔は意外とかわいい……まぁ、それでも十分怖いんだけどね。  僕には絶対にできない、こういうところも琴美の凄いところかのかもしれない。僕ならせいぜい、カウンター席に座ってこっそり調理を観察するくらいだろう。見習いたいとは思うけど、絶対に無理だとも思う。  おじさんとおばさんにお礼を言って、僕たちは店を出て商店街を歩く。とりあえず今日にも必要なものは揃えておかないとな、と言うことで日用品を買い込むことにした。小さなスーパーに入って色々物色しているときに、ふとあることに気がついた。  一緒に暮らすと言っても、別々に買うものはある。シャンプーとか歯ブラシとか、そういうのは別々に用意すべきだろう。だけど例えば、洗剤類とかトイレットペーパーみたいに、別々に買う必要はない物もある。  「どうしよう?」と困っている琴美に「とりあえず、お互いお金を出し合って、必要なものはそこから買うようにしない?」と提案してみた。後で割り勘という手もあるのだけれど、面倒くさいしその方が簡単だと思ったからだ。  そこで商店街にあった雑貨屋で、小さな財布をひとつ買う。そこに僕と琴美がそれぞれ同額のお金を入れた。日用品と食費。一ヶ月でどの程度必要なのかは分からないけど、ひとまずは多めに入れておく。  何にどれだけ使ったか分からなくなるのも困ると思ったので、ノートも一冊買って簡単な家計簿をつけることにした。こういうのはどっちがやるべきなのかな……と、少し悩んだけど、琴美がノートを眺めながら困った顔をしていたので、僕がやることにする。  荷物が一杯になったので、一旦部屋に戻った。「晩ごはんは作るからね」と張り切っている琴美。食材を求めて、夕方になり往来が激しくなってきたアーケードを二人で歩く。  今朝は地元にいたはずなのに、今は知らない街で、随分長い間会っていなかった幼馴染と買い物をしている。改めて考えてみると、不思議なものだなと思った。ついさっきまで、新生活なんてどうでもいいと感じていたけど、案外楽しいものだという気にもなってくる。  でもそれは、きっと琴美がいたからかもしれない。僕ひとりだったら、どうだっただろう? ひとりで荷物をほどいて、商店街を歩いて買い物をしているのを想像してみる。はっきりとは言えないけど、あまり楽しくなさそうだ。  僕の持っているスーパーのかごに、楽しそうな顔で商品を入れていく琴美を見ているとそんな感じがした。  でもさ、琴美。  豆腐にネギ、ひき肉、粉唐辛子、豆板醤って……もしかして、また麻婆豆腐作るつもりなの? ーーーーー  けいちゃんは「二食連続ではキツイ」と文句を言ってたけど、こういうのは頭が覚えているうちに身体に覚えさせるのが大事。何事も繰り返しで覚えていくものだよ。  肝心の味の方は、途中味見をしたときは「あ、結構イケる!」って思ってたんだけど……。出来上がってお皿に盛ったものを食べてみると、あれ、なんか違う気が? いや、違うっていうか、ちょっと辛すぎ。唐辛子の分量、間違えたかなぁ。  それでもけいちゃんは「美味しい」と言ってくれた。実家では、帰りが遅くなりがちなお母さんに代わって私が作ってたりしたんだけど、やっぱり誰かに美味しいって言ってもらえるのが一番嬉しいな。  それに誰かと食べるのって楽しい。ひとりだとちょっと味気ないもんね。  うん? お茶のおかわり? あるよ。あ、麻婆豆腐もなくなっちゃってるね。そっちもおかわりつけてくるね。  ご飯を食べて食器を片付ける。けいちゃんは「俺が洗うよ」って言ってくれたけど、いいよ、私がやるから。食器洗いまでが料理なのです。そう言うとけいちゃんはちょっと困った顔で「じゃ、お風呂準備してくる」って。  うわ……なんか、これ……新婚生活みたいじゃない? ちょっとヤバい。顔が緩みっぱなしになってしまう。ヘラヘラ顔で鼻歌混じりに食器を洗っていると「何か良いことあったの?」って聞かれた。  む、けいちゃんは何とも思ってないの……。浮かれていたのは私だけなのかな? また落ち込みそうになるのに気づいて、そのこと自体に更に凹む。はぁ、なんで私ってこんなに気分がコロコロ変わるんだろう。情緒不安定なのかな。  そんなことを考えているうちに、どうやらお風呂が沸いたみたい。「先に入っていいよ」って言われたけど、いい、私後で大丈夫だから!  でも「琴美、疲れてるだろうし」って、けいちゃんも引かない。こういうときはほんと頑固者なんだから。  実家ではお父さんの後に入るのを拒んでいた私(でも、勝手に入るんだよね。ウチのお父さんは)。でも、なんとなく、けいちゃんが相手だとそれは逆転してしまう。自分が入ったお風呂にけいちゃんが入るのを想像すると、もうそれだけで無理。  何度か「けいちゃんが先に」「いや琴美が」というやり取りを繰り返した後、私の「絶対引かないオーラ」に負けたのか、ようやくけいちゃんは「分かったよ」とお風呂場に消えていく。はぁ……お風呂だけで、こんなに疲れるとは。  一旦部屋に戻って、テレビの電源を入れてみた。地元とはちょっと違う番組が流れてたりして面白かったけど、それもすぐに飽きてリモコンを放り出す。  ベッドに寝転んで、実家とは違う天井を見ていると「あぁ、遠くに来たんだな」という実感が湧いてきた。想像していた新生活とはちょっと違っていたけど、いや、ある意味想像以上の新生活なのかな。まさかけいちゃんと一緒に暮らすなんて……。  枕に顔を埋めながら足をバタつかせひとりで悶絶していると、ドアを叩く音が。「出たよ」というけいちゃんの声。「うん」と返事して、慌ててダンボールを漁って、パジャマとかバスタオルを取り出す。  部屋を出ると、けいちゃんは自分の部屋に戻ってるらしく、静かなダイニングはガランとしててちょっと寂しい。さっきまで楽しくご飯を食べてたのが嘘みたい。  身体を洗うボディタオルがひとつしかないこと。家族のとは違う、ちょっと変わった香りのシャンプーの香り。洗面台に置かれた、けいちゃんと私の歯ブラシ……。  そんなこと、ひとつひとつに軽くパニクりながら、なんとかお風呂からあがる。化粧水で保湿したり、髪を乾かしたりしたところで「これからどうしよう」と思った。スマホを見ると、寝るにはまだ早い時間。かと言って、また出かけたりするのもどうかなぁ。お風呂入っちゃったしね。  再び荷物を漁ってみる。大学合格をお祝いして、親戚の叔父さんに買ってもらったタブレットを発見。動画サイトでお気に入りの動画でも見て、心を落ち着かせよう。ところが、アプリを立ち上げると動画が再生される代わりに「インターネットに接続して下さい」の文字が表示される。  うん……? 接続? どうやるの? 実家でお父さんが使えるようにしてくれたんだけど、それじゃダメなの? 色々触ってみたけど、どこをどうしたらそのインターネットってのに繋がるのか分からない。 「けいちゃーん、起きてる?」  私はベッドから降り、部屋を出るとけいちゃんの部屋のドアを開けた。  悪気はなかった。「人の部屋に入るときはノックしましょう」というマナーは知ってたし、学校や友達の家などでは、もちろんそうしていた。でも、実家ではそういうことをする習慣はなく、妹も「お姉ちゃーん」って勝手に入ってくるし、私もそれが当たり前のようになっていた。  だから、ついうっかり不用心にけいちゃんの部屋のドアを開けてしまった。  そこにはパンツ一枚でベッドに座っているけいちゃんの姿があった。 ーーーーー  風呂から上がった僕は、琴美に声をかける。なんか、バタバタという音が聞こえてたけど、一体何をしているんだろう……?  琴美の返事を聞いた後、リビングにいるべきかどうかで一瞬迷う。でも、小さなテーブルと椅子しかない殺風景な部屋にいてもすることがないし。と言うことで、自分の部屋へ戻る。  タオルで髪を乾かしていると、じんわりと汗が。まだ三月だというのに、なんだか暑いな。喉の乾きを覚えたけど、なんだか部屋を出にくい感じがして我慢。先に持ってきておけばよかった……。  代わりにスウェットを脱いだ。我ながらだらしない格好だとは思うけど、まぁ自分の部屋だし構わないか。身体が冷えるまで、ネットでも見ようとノートPCを取り出す。そこでそう言えば、そもそもネット回線を開いていないことに気づいた。  テレビなくても平気だけど、ネットがないと生きていけない。ひとまずはスマホで代用するとしても、急いでネット回線を引かなくちゃな。この辺りだと、どの業者がいいんだろう……と、またPCを開いて、自分のバカさ加減に呆れる。  なんだかんだ言っても、想定外の新生活に動揺しているのかな。琴美の前だとしっかりしなきゃ駄目だって気がして平然としているけど、実際は心がグラグラ揺れっぱなしの一日だった。  琴美が作ってくれた麻婆豆腐。信じられないくらい辛かったけど、逆に辛くてよかったとも思う。琴美が作ったご飯を、琴美と一緒に食べているだけで、あんなに嬉しくなるなんて思ってもなかったから。辛くなきゃ、顔がニヤけていたところだ。  この感情が恋なのか、と言われるとちょっと違う気もする。幼馴染と言っても、三年間も会っていなかったわけだし。そもそも中学生のころの僕が彼女を「女の子」として見ていたのかすら怪しい。どちらかと言えば妹感覚、というのが正確なところじゃないかな。  だったら、なんで一緒にご飯を食べただけで、顔がニヤけてしまうんだ? それは商店街で買い物をしていたときにも思ったけど、きっと家族以外の誰かと一緒に生活するのが初めてだからだろう。修学旅行や林間学校のときの楽しさ、それと同じだと思う。  ようやく涼しくなってドライヤーを取り出す。ちょっとだけくせっ毛なので、鏡を見ながら丹念に乾かしていく。母さんは「短い方がカッコいいよ」とか言うけれど、こういう髪型は今しかできないということを分かって欲しい。  大体こんなもんかな……と思っていると、突然部屋のドアが開く。ドライヤーのスイッチを切って振り返ると、琴美がポカーンと口を開けて突っ立ってた。「けいちゃ……ごめっ!」という声と勢いよくドアの閉まる音に続いて、ゴンという音と琴美の悲鳴。  ドアを開けると、しゃがんで額を押さえながら悶絶してる琴美の姿があった。「大丈夫?」と声をかけると、琴美はうつ向いたままコクコクと首を振りながら、僕に服を着るよう促す。 「……ん? あぁ、ごめんごめん」  そう言えばパンツ一枚だったことにようやく気づいた。ベッドに放り投げていたスウェットを着て、まだしゃがんだままの琴美の元へ行く。額を押さえていた手はいつの間にか目を覆っていた。そんなに恥ずかしかった? 僕は気にしないけど、と言うと「私が気にするの!」と怒られた。  ついでに「デリカシーが足りてない」とか「年頃の女の子に、なんてものを見せるの」とか、言いたい放題だ。  顔を真っ赤にしながら必死で抗議する琴美。そんなに怒らないでもいいじゃないか、と思ったけど、そこで琴美が女子校に行ったことを思い出す。僕が行っていた高校は共学で、流石に四六時中裸を見せたりすることはなかったけれど、部活などで汗をかいた男子が上半身裸でウロウロしているとも、たまにはあった。  だから、僕はそういうのをあまり気にしてなかったんだけど、琴美にとっては耐性がないのかもしれないとも思う。「ごめん、気をつけるよ」と謝ると、ちょっとスネたような顔で「うん」とうなずく。 「そう言えば、何か用事があったんじゃないの?」  あっ、と琴美は床に転がっていたタブレットを拾い上げた。あぁ、ネットに繋がらないんだね。僕が一通り説明して「明日にでも契約しに行こう」と言うと、ちょっとだけ残念そうな顔をする。 「そんなに動画観たかったの?」  どうやら凄く癒やされる動画らしい。「今度一緒に観よう」と誘われた。動物とかの動画かな?  寝るまでどうやって時間を潰そうかなぁ、と琴美が言う。確かに寝るにはまだ早い時間だ。「テレビでも観たら?」と提案すると、どうやらあまり面白そうな番組がなかったみたい。 「じゃぁ……うーん」  そこで詰まってしまう。僕はネットがなくてもPCでやれることはあるけど……。困っていると、琴美が「ねぇ、お話でもしない?」と言ってきた。その一言に、僕はビクッとする。  両親たちが図ったこととは言え、当面は琴美と一緒に暮らすことにはなるのだろう。昔の琴美のことは知っているけど、今の彼女のことは全然分からない。琴美が高校時代をどう過ごしてきたのか? なんでこの大学を選んだのか? 今ハマっていることは何? どんな音楽を聴くの?  普通に考えれば、そんなことに興味すら抱いていなかった自分に腹が立った。 ーーーーー  あれ、けいちゃん?  私が「お話しよ?」と聞いた途端、妙に真剣な顔になって黙り込んでしまった。ちょっと顔、怖いよ? 「けいちゃん?」ともう一度声を掛けると、いつもの表情に戻って「あぁ、ごめんごめん」と謝ってた。何か、考えごとでもしてたのかな? 「じゃ、私の部屋に行こ」  部屋のドアを開けて愕然とした。初日ということもあって整理できてないのは仕方がないとしても、さっきタブレットを漁ったときにダンボールから出した荷物などが床に散乱してる。瞬時にドアを閉め……まぁでも、いっか。 「ちょっと散らかってるけど」  苦笑いするとけいちゃんは「ちょっとって」とぷっと吹き出した。よかった。いつも通りのけいちゃんだ。でもそんなに笑うことはないんじゃない?  とりあえず床に転がっている雑誌やらCDやらを隅に追いやってスペースを確保。小さなローテブルに向き合って座ると、自分から誘ったくせに何を話していいのか分からなくなる。同時に喉がカラカラになっていることにも気づく。晩ごはんのときのお茶、まだあったかなぁ……あっ。  そう言えば……カバンに手を突っ込む。確か…あった、ぽんかん! 「食べる?」と手渡すとけいちゃんはちょっと驚いた顔をしてた。「どうしてカバンにみかんが」って言わないで! 出掛けにお母さんが「持ってきなさい」って強引に詰め込んだだけだし。それにみかんじゃなくてぽんかんだし!  私の抗議をスルーして「そう言えば|おばさん《姉さん》、これ好きだったよなぁ」と、けいちゃんはしみじみと言う。相変わらず姉さんって言わされてるんだね。もう断ればいいのに。  けいちゃんはぽんかんをぽいっと口に放り込んで「あぁ懐かしいな、この味」と嬉しそう。そう言えば昔はよく家に来たとき一緒に食べてたよねぇ。懐かしいなぁ……。って言っても、まだ三年ほどしか経ってないんだよね。もっと経ってる気がするんだけど。  あぁ、そう言えば覚えてる? けいちゃん、私の高校受験の参考書に変な落書きしたでしょ!? あれ、受験会場で気づいて吹き出しそうになって大変だったんだから。試験中に何度も思い出しそうになって、本当に大変だったんだよ、もう……。  あ、でもあのときはありがとね。けいちゃんが勉強教えてくれたお陰で、ちゃんと希望の高校に受かったしね。本当は……けいちゃんと同じ高校に行ければよかったんだけど……あはは、まぁ私の頭じゃ無理だったんだけどね。  でもでも、ほら大学は同じじゃない? 三年掛かっちゃたけど追いついたと言っていいんじゃないかな? うん、まぁ学部は違うから私の方が簡単なんだけど。ん、エライ? ありがと。  それにしても、けいちゃん変わってないよね。うーん、いや見た目は大人びたと言うかカッコ……ううん、何でもない。うん『大学生』って感じがしてるよ。でも中身はどうなの? 相変わらず本ばっかり読んでるんじゃないの? え、ほんとにそうなの!?  けいちゃん、昔っから本ばっかり読んでたもんねぇ。なんか暗いって言うか――。  ハッとして口を閉じる。またやっちゃった……。  何でも思ったことをすぐに口に出してしまう。そのせいで何度も友達を怒らせたり悲しませたりしてきた。後悔を積み重ねて、普段はできるだけ考えながらしゃべるようにしているんだけど、こんなふうにおしゃべりに夢中になっていると、ついつい悪い癖がふらっと出てきてしまう。  幸いにもけいちゃんはなんとも思ってないような顔しているけど、いくら幼馴染みだからって久しぶりに会った人に「暗い」なんて言うのはダメだよ。ゴメンねって頭を下げると「いや気にしてないよ」と言ってくれたけど……。  どうして気をつけてしゃべらないんだろう。いつもいつも後悔して反省しているのに、どうして繰り返しちゃうんだろう。自分の性格に嫌気が差して、思わずはぁっとため息が漏れてしまう。  「琴美」という声が聞こえて顔を上げると、けいちゃんが私の口元にぽんかんを差し出していた。え、食べろってこと? 戸惑っていると「ほら」と口に押し当ててくる。私は薄皮ごと食べちゃう派なんだけど、けいちゃんは丁寧に剥く派らしい。甘い香りがして……って言うか、ぽんかんよりもこのシチュエーションの方が甘いんだけど。  意を決して口を開けてパクっと一口で。勢いよくいき過ぎて、一瞬けいちゃんの指まで食べそうになる……って、すっぱーい! なにこれ? ものすごく酸っぱい!! けいちゃんはむせてる私を見て、おかしそうに笑ってた。  なんとなくだけど、けいちゃんに気を使ってもらったような感じで、申し訳ないという気持ちと素直にありがとうという気持ちが湧いてくる。それを伝えようか迷っていると、けいちゃんは「そういや受験と言えば」と中学校のころの話に話題を戻す。  懐かしい、ちょっと甘酸っぱい。そんな思い出話をしているうちに、あっという間に時間は過ぎていった。