「後悔」でなく「反省」をしよう 「心配」ではなく「希望」を持とう

雑多記事エッセイ

生きていると「あぁ、なんであのときあんなことをしたんだろう……」と昔のことを後悔したり、はたまた将来のことを考えて心配になったり不安を覚えたりすることもあると思います。

今日はそのようなことで心を悩ませている方に「そんな無意味なことはやめよう」とお伝えしようと思います。

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後悔や心配することは、人間として当たり前のこと

後悔や心配を繰り返してしまう方の多くは、それを「よくないことだ」と思いがちです。

「後悔なんかしても何にもならない」「心配ばかりして足が止まるのは良くない」と思いながらも、気がつくとそういう思考に捕らわれてしまい、結果として「そんな自分は本当にダメだ」と自責の念を覚えてしまうのではないでしょうか。

かくいう私もその一人です。

後悔や心配は本記事でも触れていくように、生きていく上であまり役には立たないものです。

それでも多くの人がそれについて悩んだり苦しんだりしています。

と言うことは、それは「人間として当たり前のこと」と言えるのではないでしょうか?

私は心理学や脳神経の専門家ではありませんが「多くの人が同じことを思うということは、それは人間として元々持っている、脳や神経の構造だ」ということは言えると思います。

だから「後悔や心配ばかりしている自分を責める」という必要はありません。

それは人として当たり前の感情です。

大切なのは「それは生きていく上であまり有益ではない」ということを確認し「ならばどうすれば良いか」ということを知ることです。

人は今にしか生きられない

まず「後悔や心配が、なぜ有益ではないのか?」ということについてお話しましょう。

それはひとえに「人は今にしか生きられないから」です。

この言葉自体はどこかで聞いたことがあるかもしれません。

でも分かってはいるけど分かってないというような思いになっている方も多いのではないでしょうか?

「人は今にしか生きられない」は、言い換えれば「人は今にしか干渉できない」ということです。

過去に遡って人生をやり直したり、未来に行って問題を解決したりできるのは、小説やアニメや映画の中の話だけです(もしあなたが「タイムリープしてきた」というのならば別ですが)。

過去の自分も、未来の自分も、今の自分にはどうにもなりません。

過去のことを後悔することや未来の心配をするということは「自分ではどうにもならないことに、心を寄せている」ということです。

言ってみれば「壊れたラジコンのコントローラー(プロポ)をガチャガチャしている」という状態です。

例えが古いでしょうか。

「壊れたスマホをいじってる」という方が今風かもしれません。

いずれにしても「自分ではどうにもならないこと」は、どう足掻いてもどうにもなりません。

どうにもならないことに考えを割くことは有益ではない、ということは分かりますよね。

逆に言えば「今の自分はどうにでもなる」とも取れます。

であれば、自分が集中すべきは「今の自分」ですよね。

今の自分を大切にして「過去の自分」や「未来の自分」ばかり大切にすべきではないことが分かりますよね。

過去と未来との付き合い方

とは言え……とは言え、過去や未来のことを考えることも、生きていく上では大切なんじゃないだろうか?

そう考えた方もいらっしゃるかと思います。

そのとおりです。

要は「過去と未来との付き合い方」を変えればいいだけです。

「後悔」ではなく「反省」を。「心配」ではなく「希望」を。

「後悔」は過去を悔やむことです。「あれさえなかったらなぁ」と後ろめたく思うことです。

一方で「反省」は過去を顧みること。「あぁいうことは今後しちゃいけない」と過去から学ぶことです。

「心配」は未来を憂うことです。「どうなっちゃうのかなぁ」と気をもむことです。

一方で「希望」は未来を想像することです。「こうなりたい」と願うことです。

言い換えれば、

『反省をすることは過去の出来事を現在に活かすということ』

『希望を持つということは未来のことを現在の原動力にすること』

という感じですね。

「小説を書く人を応援するサイト」らしく具体的に小説創作で考えてみましょう。

「あー、昔書いた小説。全然ダメだー! 恥ずかしーーー!!」

というのは「後悔」です。

「昔書いた小説。ここは表現が足りてないな。この会話もこう直した方がよかったな」

というのは「反省」です。

「この小説。投稿しても、誰も読んでくれないんだろうな」

というのは「心配」です。

「この小説。きっと喜んでくれる人もいるに違いない」

というのは「希望」です。

さてここであなたは「いやでもさ、しろもじ。『きっと喜んでくれる人がいる』と思って投稿した小説が、誰にも読まれなかったら、希望が失われるんじゃないの?」と思われたのではないでしょうか。

そこが結構キモなんですよ。

経験が邪魔をする

ほとんどの方がそうだと思うのですが「生まれてきたときから後悔したり希望を失ってしまっている人はいない」と思われます。

赤ちゃんのときは言うに及ばず、幼少期などは「ウジウジ悩んだりしないし、将来は◯◯になりたい」と希望に満ち溢れていた、というのが普通ではないでしょうか。

それはつまり「生きて経験を重ねていく内に、心の中に堆積したもの」が、そういう思考回路を築いているということです。

「過去の経験」から「あのときの傷ついた自分が忘れられない」ようになったり「将来にも同じことが起こるのではないかと杞憂する」わけです。

しかしながら、過去はしょせん過去のことです。

例えば「コップを倒せば、中に入っていたお茶はテーブルにこぼれる」という現象は、いつ何度やっても同じ結果を生みます。

「稀にお茶が奇跡的にこぼれなかった」ということはなく、100回やれば100回テーブルを拭く羽目になってしまいますよね。

このように単純な出来事は「100%の再現性」があるのですが、人生で起こることはそれよりも多くの「他の要素」を含んでいます。

そのように複雑化した出来事は「過去のことが全く同じに再現される」ということはありません。

「小説を1冊書籍化できたから、一生安泰」ということがないように(むしろ現代ではその方が稀)「今まで書籍化できなかったから、今後も書籍化できない」ということはありえないわけです。

恐らく皆さんもそんなことは重々承知だと思います。

ですが「再現性があることと、再現性がないこと」を混同してしまって「過去の経験」に縛られてしまっている方は多いのではないでしょうか。

もう一度言いますが「過去はしょせん過去のこと」です。

そして「未来もしょせん未来のこと」です。

「なるほど! 今日から実践しよう」その前に

これを読んでもし「なるほど! 確かにそうだ」と思って頂けた方へ。

例えば他のWebの記事や書籍などで似たようなものを読んだとき、それをすぐに実践しようとしてもなかなか上手くいかないことがあったりします。

「あったりします」というよりは、ほとんどの場合上手くいきません。

それは「人間はそんなに簡単に変われない生き物」だからです。

私も数多くの「人生の生き方」「自己啓発」などの書籍を読んできましたが、その多くは今や「あれは一体何だったんだろう?」という感じになっています。

もっとも大切なことは「訓練する」ことです。

「この考え方をできるようになりたい」と思ったら、折に触れてそれを思い出して何度もそう考えるように繰り返すこと。

これ以外に会得することは不可能だと、個人的には思っています。

それをしていく内に「あれ、ってことはさ……」のように更に発展した考え方を手に入れることがあります。

そのとき初めて「その考え方」が自分の中に定着しつつある、と言えるのだと思います。

なので、ここに書かれたことが真実であると思う必要はありません。

ここに書かれたことを参考にして「自分なりの答え」を見つけることが最も重要だと、そういう生き方をすることこそが「生きている」ことであると、私は思います。

あなたの人生はあなただけのものです。

どうか、あなたなりの答えが見つかりますように。