創作小説とリアルさ|『きみとぼくのダンジョン再建記』第82話投稿のお知らせ
こんばんは、しろもじです。
『きみとぼくのダンジョン再建記』第82話「それは間違っている」をカクヨムに投稿しました。
約三話に渡って続いてきた過去編がようやく終わりました。物語終盤になって過去の話に戻るって展開は、小説や漫画、映画などでもありがちなものではありますし、場合によっては結構長いこと戻ってこないことも多いんですが、個人的には今回の文量(約一万字相当)でも多かったかな、という印象です。
あまり長いこと過去に行っちゃっていると、元の話がなんだったかわからなくなってしまいますからね。
対策としては「要所要所に分けて散りばめる」というのもありかなぁ、と思っておりましたが、如何せん私の技量ではそんな高度なことはできません……。
いつも思うんですが、物語の構成(つまり書いていく順番のことです)がもっと上手くなりたいなぁ……。なんか行き当たりばったりなんですよね。
さて話は変わって、今回は「創作小説とリアルさ」について考えてみたいと思います。
創作小説とリアルさ
小説を書くとき、特に最初に構想を練ったりプロットを作ったりしているときに、気になることのひとつに「どこまでリアルに書くのか?」ということではないでしょうか? これらには「キャラクタのリアルさ」「設定のリアルさ」「ストーリーのリアルさ」など色々なリアルがあると思います。
例えばキャラクタであれば「語尾に『なのだ〜』を付けて話す女の子は普通いないよね」とか「見た目がどう見ても女の子な男の子はそうそういないよね」とか。
設定なんかは今創っている(正確には創ろうとしている)SFものなんかだと結構迷ったりしています。今から三十年後辺りの世界を描くつもりなんですけど、三十年後って誰にも分からないじゃないですか。
「誰も予想などできないから、好きなように書けば良い」とも思うんですが、でもあまりにもトンデモ科学な設定を盛り込んじゃうと、それはそれでどうかなぁと。
ストーリーなんかは現実世界で起こることの方が余程「ご都合主義」であることが多かったりするので、リアルさを追求していくと逆にリアルではなくなってしまう気もしますよねぇ。
今、ここで過程を公開しながら書いているラブコメものでも、その辺りで悩んだりしてるんですよね(連載タグをつけました)。
私の場合、特にキャラクタがどんどん平凡になっていく(≒リアルになっていく)傾向があると思っているので、その辺りをどうするかなぁという部分で苦慮してたりしています。
あまりにも突飛なキャラクタだと、それはそれで受け入れられない気もしますし、かと言って「どこにでもいる普通すぎる人」だとそれはそれでどうかなぁと思うんですよね。
キャラクタを特徴つけるやり方として「性格」と「能力」があるというのは何となく最近思っていまして、例えば弊小説の『きみとぼくのダンジョン再建期』に出てくるヒロインのキョーコなどは「能力」に特徴があるキャラクタであると言えそうです(彼女の性格はそれほどひねっていない……つもりです)。
ただこれはファンタジー世界だからこそできる、とも言えそうです。現代が舞台のラブコメだとどうなんでしょうねぇ? 「スポーツ超万能」とか「成績超優秀」とかでしょうか。サブキャラクタにはよくある設定な気がしますが、メインで使われていることってあるのかな?
ただ設定にしてもキャラクタにしても結局は「創作」なわけで、ドキュメンタリでもノンフィクションでもないわけですから、そこまでリアルさを追求するのはどうなのかな、とも思ったりします。
色々な小説を読んだりしてて思ったのは「それがリアリティがないものだとしても、読み手(受取り手)との間で合意できていれば良いのではないか」ということです。
最初に出てきた「語尾に変な言葉を付けるキャラクタ」でも「そういうものだ」と受け入れられる場合も結構あったりしますからね。
問題は「それをどうやってやるのか? 」と言う根本的な部分です。「この小説はその部分ではリアルさを追求していませんよ〜」というのを、どうやって伝えるのか?
皆さんはどうやってるんでしょうね? ちょっとWeb小説を読んで研究してみたいところです。
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