議論についての考察
世の中にはたくさんの考え方を持った人がいるわけで、異なり意見の人たちが集まると当然意見の相違が生まれ結果として議論が巻き起こることがあります。
ひとくちに議論と言っても様々な形態のものがありますが、小学生よりも中学生、中学生よりも高校生、大学生、社会人へと進んで行くに従って、より複雑で難しいものへと変化していくように思われます。
特に会社で行われる議論については「どうしたら答えが見つかるのだろう?」と困惑してしまうことも多いかもしれません。
また実社会だけではなく、創作上においてもキャラクターたちが議論を始めることはあるかもしれません。
個人的にはこちらの方が悩ましい出来事ですが……(笑)。
今日はそんな頭痛の種、議論について考えてみましょう。
議論には種類がある
まず議論はいくつかの種類に分類できそれにより性質が異なるため、最初に整理しておきます。
生きていく上で最初に遭遇するであろう議論は「趣味などの答えを要していないもの」だと思います。
「アニメの考察」や「バイクや車は小排気量、ハイパワーどちらが楽しいか?」「カメラメーカーはどこが一番良いのか?」などですね。
これらは人の趣向による部分が大きく、はっきり言って答えのない議論だと言えるでしょう。
と言うか「答えを出すことを目的としていない議論」と言ってもいいかもしれません。
あくまでもワチャワチャと言い合っている過程を楽しむものだと言えます。
また社会人になってくると「答えを出さないといけない議論」も出てきます。
これは「それが正しいかどうかは分からないが、ひとつの答えを出すべきとされているもの」になります。
自社で販売する新製品の価格はいくらにするのか? ある従業員の評価をどうするのか? 進出してきたコンペティタへの対抗策はどうするのか?
これらはやってみなければ正解は分からないし、もしかするとやってみても正解は分からないかもしれない。
それでも上記のように「そう思うのならそうなんだろ、お前の中ではな」と捨て台詞を吐いて終わらせるわけにはいかないので、何らかの結論を出さないといけないのでなかなか厄介な議論になります。
最後に一番目のものに似ていますが「答えのない議論」というものもありますね。
例えば「人の意識とは何か?」とか「国家の経済政策はどのように行うのが正しいのか?」などです。
これは個人というより人類として答えが導き出されていない問題とも言いかえることができそうです。
「なんとなく答えが見つかりそうだし、大多数の人がそれっぽい意見は持っているんだけど、決定的なものは何一つない」という感じのものです。
トロッコ問題などもこれに当てはまるかと思われます。
議論の答えの出し方
種類についてはこのくらいにしておきまして、具体的な答えへの導き方を考えてみたいと思います。
まず最初に挙げた「答えを出す必要のない議論」については、ここでは除外します。
あくまでも個人の考え方、趣向によるところが大きいので答えなどありませんし、例えあったとしてもそれを出すことが正解とは言えないことが多いからです。
また最後の「答えのない議論」についても外しておきましょう。
だって答えはないんですからしょうがないですよね(笑)。個人的には好きな部類なんですが。
それでは「答えを出さないといけない議論」について考えてみましょう。
まず最も大切なのは「最終的に決定権を持っている人がいること」でしょう。
会社であれば決裁権限を持った人がいるのかどうか。創作ものであれば主人公や敵対している重要人物などがそれにあたります。
その人が独裁的な手法を取れば取るほど「議論は起こらない、または結論ありきの議論になる」傾向があるかと思われます。
全てを一人で決めてしまう人であれば議論ではなく説明だけで終わってしまいますし、そうでなくても議論に参加しているメンバーが「結局そうなるよね」という共通認識を持って、予定調和的に議論が進むようになってしまいます。
ある程度結論が見えている議論というと、一見あまり良くないように見えますが、ときに有益であることもあったりします。
それは「第三の道を見つけることができることがある」からです。
一般的に議論と言えば「AかBか?」というように、相対する意見をぶつけ合うものになりますよね。
ところが「AでもBでもなくC」というように、当初誰も想像していなかった答えが見つかることもしばしばあります。
例えば新しく売り出す新製品(原価500円)の価格を「薄利多売で1,000円」に設定するのか、それとも「利益優先で2,000円」にするのか。
とにかくたくさん売って実績を作りたい営業にとっては1,000円で売った方が良いかもしれません。
一方でブランド価値を大切にしたい開発にとっては、そんな安売りはして欲しくないでしょう。
このときあまり取るべきではない策がふたつあります。
ひとつ目が「多数決で決める」ことです。
多数決で決めるということは、現代の民主主義において根幹となる解決方法であり(選挙も国会も全て多数決によって決まるため)、よく取られがちな手法になります。
「多くの人が支持している結論は、多くの場合正しい」というのは、場合によっては正しいことも多いのですが、結論がコンサバなものになりがちです。
議論している母体(国や会社)が上手く回っているときや、社会が安定しているときには有効な手段だったりしますが、危機的な状況だったり社会が大きく変わろうとしているときには古い概念から抜け出せず、結果として「間違った選択」を取ってしまう可能性があります。
また創作では、最も面白くない解決方法だとも言えそうです。
多数決で決まったことが遺恨を残し……という展開なら面白さも見いだせそうですが、読者が「Aなの? Bなの?」とドキドキしているときに「多数決でAに決まりました!」では、納得できない場合も多いかと思われますよね。
ふたつ目には「中間の玉虫色の結論を出す」ことが挙げられます。
「1,000円で売るのか2,000円なのか? 結論が出ないから1,500円にしよう」というものですね。
あ、今鼻で笑いましたね?(笑)
確かにこうやって文字で書くとあまりにもバカバカしく思えるのですが、実社会では結構あったりするんですよねぇ……。
なぜ愚策なのかを改めて考えてみると「価格1,000円」と「価格2,000円」には、それぞれ(立場の違いから出てきた)主張がありますが「価格1,500円」にはそれがないからですね。
1,500円にすることで、利益もブランド価値も失うかもしれない。
ですが、誰の意見も採用されていないという見かけの平等性はあるように思えますから、特に白熱した議論では「遺恨を残さない」という意味合い、もしくは「責任の所在を曖昧にする」という意味合いでも、結構取られがちな手段だったりします。
このように「多数決による解決」や「玉虫色の解決」では、議論という本来「意見を戦わせる」という意味を持ったものの価値がなくなる可能性がありそうです。
そこで前述した「第三の道」の話になります。
「1,000円なのか、2,000円なのか?」という議論は、はっきり言うと「そのままでは答えが出ない」ものだと言えます。
1,000円を主張する人にも2,000円を主張する人にもそれぞれの意見があり、もし簡単に「そっちの方が良さそうですね」ということになるのであれば、そもそも考えが浅かっただけということになりますよね。
普通はそんなことはなく、ある程度熟考した上で「1,000円だ」「2,000円だ」と言っているわけですから、なかなか話が噛み合うことはありません。
それでもいろいろ意見を交わしている内に「キャンペーン期間を設けてその間だけ1,000円で売ってはどうか?」という話が出てきたりします。
これなら営業はスタートダッシュで販売数を確保できますし、最終的には2,000円という価格に戻るためブランド価値の損傷も最小限で済むので開発陣も納得するかもしれません。
これはあくまでも例ですので「年間の取引の多いお得意様だけに1,000円で販売する」でも良いですし「他の商品と抱合せで1,000円にする」でも良いかもしれませんね。
要は「AかBか?」だけだと思われていた結論に「C」という新しいものが誕生するということ。
これが議論の最もよい解決方法ではないかと、私は思っています。
「AかB」という結論を出すだけであれば、独裁的な人が「Aだ」「Bだ」と言えばいいだけですし、多数決による解決でも可でしょう。
議論をするということは「絶対Aだ」「いいやBしかあり得ない」と言っていた人たちが「Cか……いいかもしんない」という思考に変化することを目的とすべきだと思います。
やや蛇足になりますが、確かに議論の中には「どう考えてもAが正しい」というものはあります。
原価500円のものを「たくさん売りたいから原価割れの400円で売りましょう」という意見は明らかに間違いですし、逆に「がっぽり儲けたいから5,000円で売ろうぜ」というのも同じだと思われます。
ですが、そのように極端に間違ったものは、そもそも議論にはなり得ないと思います。
議論とは「AかBかどっちか判断し難いもの」のとき、行われるべきことだからです。
リーダーシップ
先程、議論において最も大切なのは「決定権を持っている人がいることである」と書きました。
「決める権限がない人」とは言い換えれば責任者、まとめ役、上司などになりますよね。自分じゃない誰かがいるのなら気が楽なんですが、自分がその立場に置かれるとなるととても大変なことになったりします。
議論を結論へと導く手段にはいくつかの方法がありそれは上でも述べましたが、最も重要なことは「最終的には自分が決めて責任を取ること」を明確にしておくことです。
議論に加わる人にとって最も恐れることは「責任を取らされること」です。
もちろん自分の意見には責任を持つべきですが、あまりにも大きな責任を負わせることは、議論の萎縮へと繋がりかねません。結果として先ほど述べたように「誰が決めたか分からないような玉虫色の結論」になるか「多数決による決定での責任分散」になってしまいがちです。
議論をするということは「複数の意見から最も良い(良さそうな)ものを導き出す」ということに価値があります。ですので、決定権を持っているリーダーは、できるだけ多くの意見が出てくるような土壌を作るのが仕事と言えそうです。
案外、といっては失礼かもしれませんが、経験豊かなベテランよりも新人スタッフだったり、常識がないのかと疑いたくなるような人の意見にこそ、ヒントがあったりするものです。
『STAR TREK The Next Generation』の主人公であるジャン・リュック・ピカード艦長は、判断に迷ったとき必ず「意見を聞こう」と部下に投げかけます。様々な意見を聞き、その中から最適解を導き出そうとしていました。
またどのエピソードだったかは(また誰がいったのかは)覚えていませんが「意見は聞こう。だが決定するのは私だ。決定したからには必ず従え」というセリフもありました。一見、傲慢なようにも聞こえますが「責任は自分が取る」という意思表示の現れでもあったように思えます。
「リーダーシップ」という言葉にはどこか「独裁的」という響きを覚えることもあったりします。私も若いときそれを履き違えて、大きな失敗を繰り返したことがありました。
繰り返しになりますが、議論とは異なる意見を出し合って、最も良いものを選び出す行為です。「最も良い選択肢を導き出す」ためには「ひとつでも多くの意見を出す」ためには「参加者が思っていることを全て吐き出す」ためには「参加者が自由にいえる雰囲気を作る」ことが、リーダーに求められているスキルだと私は思います。
議論と感情
さて、ややお仕事系の話が続いてきましたので、最後に「答えを要していない議論」についても少し触れておきましょう。これは最初に書いたように「趣味などに関連した議論」になります。
お仕事系の議論でもないことはないのですが、やはり趣味などの話になると人間はどうしても感情的になりがちです。それは主に「個人の思い入れが大きい」というのが原因だと思われます。
例えば小説執筆などに関しても、人それぞれ色々な意見や信念があったりしますよね。
- 「売れるもの(売れそうなもの)を書くべきだ」「自分の書きたいものを書くべきだ」
- 「設定は緻密にしなくてはならない」「ご都合主義でもいいじゃない」
- 「非現実的なキャラクタは駄目だ」「面白ければいい」
- 「異世界ものばかり書くべきではない」「求められているものを書いて何が悪い」
- 「ドラクエ的なファンタジーは邪道だ」「元々ファンタジーって創作でしょ?」
あー、いやいや。私がどっちの意見ですよ、という話ではありません(笑)。
私は、人が自分と異なる意見を目にしたとき取る行動には
- 無視する
- 反論する
- 貶める
の3つがあるのではないかと思っています。
自分にこだわりのないもの、どうでもいいもの、論理的に意見すべきでないと判断できるものについては「無視する」という行動を取るでしょう。
でも自分がこだわっているもの、もしくはそれが自分に向けられたものの場合は「反論する」という行為に至ると考えられます。なので、趣味系の議論は荒れることが多いんですよね。
楽しく意見を交換しているうちはいいのですが、ときとしてそれが「個人攻撃」へと移ることもあったりします。それこそが「貶める」ということです。
どこまでが議論でどこからが個人攻撃なのかは、話の中で「あなたが」「君が」という言葉がどれほど出てくるかで判断することができそうです。
「それなら君はできてるの?」「でもあなたは前に」などという言葉は、議論から外れて個人攻撃へと向かっているサインだと私は思います。
ですので、もし自分がそういうことを言い出したら修正すべきですし、誰かにそう言われたときには議論を中止すべきではないかな、と思います。
面と向かってしゃべっているときでさえ、ちょっとしたことで行き違いは起こりえます。ましてやネットの世界では、よくあることだともいえます。
そういうときは撤退すべきでしょう。「逃げた」といわれてもいいじゃないですか。最早、それは議論にはなっていないのですから。
まとめ
今回も長々と書いてしまいました。
リアル世界の話でもあり、また創作上の話でもある人と人の議論。
どちらにしても頭を悩ませることが多いですよね。
そんなことについて、今日は色々考えてみました。
最近特に思うのは「人間は歳を取ると意見を変えにくくなる」ということです。科学的に「脳機能が衰え」がそれに影響を及ぼすという研究結果があったような覚えがありますが、自分自身を鑑みても、それは確かにあるよなぁと思います。
人は経験を積むと、色々な経験をして、色々悩んで、色々考えます。それが歳を取るということで、それが否定されるのは許しがたいことだと思ってしまうのかもしれません。
「あなたは本当に頑固だね。全く意見を変えようとしない」
このセリフがどれほど矛盾に満ちているのかが理解できなくなっているのであれば、それは少し頑固者になってきている証かもしれませんね。
最後に議論に関して私の好きな言葉を書いて終わります。
「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
フランスの哲学者 ヴォルテール(フランソワ=マリー・アルエ)
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