ペンギン・ハイウェイ【森見登美彦|角川書店】

現代もの, 読んでレビュー角川文庫, 森見登美彦

こんばんは、しろもじです。

読んだ本を自分なりにレビューする「読んでレビュー」。

今回は3冊目の森見作品『ペンギン・ハイウェイ』を取り上げたいと思います。

映画を観に行くかどうか……で迷っていて、それに巻き込まれた格好で本書を読むのも後回しになっておりました。

結局映画は行かなかった(行けなかった)のですが。

 

今回はネタバレを含んでおりますのでご注意下さい。

京都じゃ……ないだと?

まず非常によく言われている感想だろうと思われることから。

そう、京都ではないんですよ、小説の舞台が!

森見作品と言えば京都、京都といえば生八ツ橋と言われるくらい「森見登美彦=京都」という図式は完成しております(個人の感想です)。

 

どうやら舞台は奈良の模様です。

森見登美彦氏って奈良生まれなんですよね。意外ですよね。

あれだけ京都ものを書いてきたのだから、てっきり京都生まれの京都育ちなのかと思っておりました。

 

作中では「奈良」という単語は見当たらないどころか、具体的な地名、駅名なども出てきません。

この辺りが京都を舞台にした『有頂天家族』とか『夜は短し歩けよ乙女』などと違うところ。

やや話が逸れますが、京都を舞台した作品って普通に「四条木屋町」とか「先斗町」とか具体的な地名がバンバン出てきますよね。

 

思うにあれって「京都を舞台にしていることのオシャレさを醸し出す要素」として敢えて書かれているのかな? と穿った感想も持ってしまいます。

まぁ確かに「北白川通り」とか「叡山電鉄」とか言われると、詳しく知らなくても「あぁ、なんかそれっぽい」と思ってしまいがちです。

これが「国道◯号線」や「◯◯線」とかだと、悪くはありませんが「なんで敢えてそこ?」と首を捻ってしまいそうになりますからね。

何かの伏線なのかと勘違いしてしまいそうです。

 

なので、京都を舞台にするというのは、創作活動においてそれだけでプラス要素になるというか「ステータス+1」みたいな効果があるのではないかと、個人的には思ったりします。

話を戻します。

登場人物もこれまでとは違う

そういうわけで本作は「いつもの森見作品」とはちょっと違った雰囲気を持っています。

『有頂天家族』や『夜は短し歩けよ乙女』のような舞台や登場人物の不思議さはなくなっている代わりに、大きな謎が登場します。

「お姉さんの出すペンギン」「草原に出現した海」「ジャバウォック」「主人公たちの探検する川」など様々な謎が物語の進行と共に明らかになっていきます。

 

登場人物も変わっています。

今までの登場人物では「大学生やそれより少し上」という設定が多かったのですが、本作の主人公「アオヤマ君」は驚愕の小学四年生。

友達の「ウチダ君」「ハマモトさん」も同級生。

お姉さんは働いているので恐らく二十歳過ぎだとは思いますし、お父さんやカフェのマスター「ヤマグチさん」など大人も登場していますが、メインは小学四年生。

しかもアオヤマ君の一人称です。

 

他の作品も一人称で書かれていましたが、本作ではより一人称に特化しているように思われます。

一人称小説って、主人公の心情は書きやすいですし、地の文も主人公目線として考えると口語調に書けることもあったりする反面、主人公が見てない知らないことは書けないという縛りが存在します。

それ故にパートによっては「人から聞いた話」や「後で知った話」などを織り交ぜて、その辺りを補強する手法が取られたりします。

本作ではそれがほとんどありません。

多少はありますが、あくまでも視点はアオヤマ少年に固定されており、彼の思考が日記のように綴られている形態になっています。

 

少し気になったのは、その弊害なのかアオヤマ少年が小学四年生にしては難しい言い回しなどをしている箇所があるんですよね。

多くは「ちょっとませた小学生」という口調で語られているだけに、少し違和感を感じてしまうことになりました。

この辺りは許容範囲と取るのか、小学生を主人公にした弊害と取るかは微妙なところですが、まぁそれほど大きな問題ではないのかもしれません。

 

少し残念に思ったのは、主人公のアオヤマ君があまりにも完璧過ぎることです。

いや、実際には全然完璧ではないのですが、これまでの森見作品に出てくる主人公たちに比べると、断然しっかり者なんですよね。

その辺りは新しい挑戦という意味合いもあるのかもしれません。

ただ、魅力的には感じられない(難しいのですが「駄目だこりゃ」な主人公という意味合いではなく、共感性に欠けてしまうという意味で)のが少し残念なところです。

 

森見作品では「先輩」「後輩」「たぬき」「天狗」など、具体的な名前はあるもののある程度抽象化された登場人物たちで構成されていました。

その点で言えば本作もそれを踏襲しており、カタカナで書かれた主人公たち、ヒロイン(かな?)なのに名前がないお姉さんなどと描写されております。

この辺は本当に凄いなと思うところです。

おっぱい問題

チラッと見ただけなので本当かどうかは分かりませんが、映画版を見た一部の方から「女性を軽視している」という意見があったとか。

確か「おっぱいおっぱい言い過ぎで、女性を記号化して見ている」というものだったと思います。

その指摘は……確かに!(笑)

 

文中では本当に「おっぱい」が連呼されます。

森見氏はもしかしておっぱい星人ではないのか、と勘ぐってしまいそうになるくらいおっぱいが連呼されているページもあります。

ただ、個人的には「女性を性の対象として、男の欲望を書いている」というよりは、性の差を描いているというわけでそれは女性でもあるんじゃないかと思うんですよね。

敢えて身体のことだけに絞りますが、例えば女性であれば「おっぱい」であったりそれを含む丸みを帯びた体つき、くびれた腰、うなじ、ふくらはぎなどなど……。

男性であれば、逞しい二の腕、厚い胸板、喉仏、割れた腹筋など。

 

そういう性の違いってあるわけじゃないですか。

確かに歴史的に女性の方がその対象になってきたというのはあります。

なので、上記のご指摘も「まぁしょうがないのかな?」と思ったりもします。

しかし、本作で言う「おっぱい」とは小学生くらいの多感な時期の子供が、初めて異性を意識する上での象徴的なものである、というくらいに捉えるのが適切かと思われます。

 

まぁ、森見氏にも「少しは自重して下さい」と言いたくなるのは確かなのですが(笑)。

次ページは、かなりネタバレに踏み込んだ話になりますのでご注意下さい。