「頭固いなぁという話」 [小説投稿記:家族編集部 第26話]

小説投稿記カクヨム

こんばんは、しろもじです。

 

「家族編集部 第26話」をカクヨムに投稿しました。

ようやく「家族編集部」が始動しました。

ストックの方は、一向に進んでいません(笑)。次作のプロットに時間がかかりすぎています。プロット創りって、面白いんですけど難しいですよね。

 

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頭が固いなぁという話

先日ネットを見ていたら、ある議論の中で「なんでこんなに頭が固いんだ」と言って相手を非難してらっしゃる方がいたんですよね。

この言葉は言い換えれば「私がこんなに懇切丁寧になんで分かってくれないの?」ということでしょう。例えば「手に持っている花瓶を離すと落ちる」みたいに常識的な結論が導かれる話であれば「いや、落ちないこともあるでしょう?」と言っている人に向かって「なんて頭が固いんだ」と言ってもいいかもしれません。

でも、誰にも正解が分からないような話で「頭が固い」と持ち出すのは、それ自体が「私も頭が固いんですけど」と言っているようなものだと私は思います。どっちも自分の主張だけで、相手の話を全否定することで出て来る台詞ですからね。

 

では、なぜ頭の固い人がいると思ってしまうのか?

 

それは「言えばきっと分かってくれる」と思っているからに他なりません。

そもそも人は他人と分かり合えることは絶対にありません。

こう書くと「冷たい人だな」と思われるかもしれません。人は必ず分かり合える。それができないのは、他人を思いやる心に欠けているのではないかという意見もあるかもしれません。

しかし、それは明らかに間違いです。

人は他人の頭の中を覗いて、その思考を読むことなどできません(少なくとも現時点では)。出来ることと言えばせいぜい「あの人はきっとこういう気持ちだろう」と想像するくらいのものです。

そしてその想像は、自分をベースにして考えるしかありません。自分だったらこう思うから、きっと相手もこう思っているだろうという感じ。よって「他人の心が分かる」なんて言う人のほうが、よほど独りよがりだと私は思います。

 

だいたい、自分の心のことだって、本当のところはよく分からない人が多いのではないでしょうか。実際、私だって自分の心のことなんて理解できません(笑)。心はコロコロ変わるもの。それは人間に感情という機能が備わっているからに他なりません。

感情がある故に、それを表に出すか出さないかは別として、それに心は左右されます。感情を押し殺す、という言葉があるように、人間と感情とは切っても切り離せないものです。どれほどそれを鎮めようとしても、どれほど平静を装っていても、必ず心は感情によって乱されます。

だから、本当の自分なんて言うのは、蜃気楼のようなもので、ユラユラ揺れてキチンとした形を持っていないものなのです。

 

そんなものなのに、他人の気持ちを分かることなどできるわけがありません。

しかし一方で、他人の心など分からないからこそ、他人の力になれることもあります。別の心だからこそ、客観的に見ることもできるし、違った視点から意見を述べることもできます。

だから、意見が衝突して、相手が聞く耳を持たない時は「そういう人もいるんだな。勉強になるな」と思えばいいのです。特に小説を書く人にとっては、本当にいい勉強だと思います。

議論をすること自体が無駄だと言う気はありません。ただ「頭固いな〜」という台詞は議論において、禁じ手といえるものだということです。その人との議論をもう止めたい時のファイナルウェポンです。

ただ、相手も同じように「こいつ頭固いな」と思っていますけどね。

 

一般的なコミュニケーションの中で「気持ち分かるわ〜」と言うのまで悪いと言う気はありません。そういう言葉で救われる人もいるのであれば、一種の優しさとしてそういう言葉をかけることも必要なこともあるでしょう。

でも、最も根本的な「自分と他人は絶対的に違うのだ」ということを理解していないと、自分も相手も苦しむことになることがあります。

 

今日は珍しく小説に関係ない話のような気がしますが、実は小説を投稿する上でも結構大切な考え方ではないかな、と私は思います。

 

今日も最後までお付き合い頂きまして、ありがとうございました。

それでは、また明日。