「『事実』がいつも正しいとは限らない」という話【創作日記101719】
今日は少しだけ創作とは離れた話になるかもしれません(「今日も」かも)。
事実と真実
先日ある人と話をしているときに、その人の言動について「良い悪い」ではなく「事実としてこういうことがありますよね」ということを指摘しました。
「真実と事実の違い」は異なっており「真実は自分にとって正しいこと、事実は客観的に見て正しいこと」というように理解されていると思われます。私の言ったのは真実ではなく事実。つまり客観的に科学的に正しいとされていることを指摘したわけです。
ですが、相手はそれを聞いて気分を害してしまいました。私からすれば「あなたに問題がある」と言いたかったわけではないのですが、どうやらそう取られてしまったようです。
これは完全に私が悪かったと思いました。
どれだけ客観的に正しいことを言ったとしても、それを相手が正しく理解できるかどうかは別の話です。時折勘違いしてしまうのですが、私たちは「自分は事実に基づいて話をしているのだから、絶対に自分の話は正しくて、相手が受け入れるのは当然だ」と思いがちです。
しかし全ての人が事実と真実の違いを知っているとは限りません。それを説明したとしても、理解できるかどうかも分かりません。もちろん「そんなの相手が悪いじゃないか」と言ってしまうのは簡単です。でもそれでも人それぞれなんだと私は思うんですよね。
大切なのは相手の立場に立って話すことだったのですが、私は事実を掲げてそれを受け入れるように強要してしまったわけです(別に無理強いをしたわけではないのですが、結果的には同じこと)。
このような話を書くと人によっては逆に気分を悪くされる方もいらっしゃるかもしれません。でもやっぱり世の中は「事実を告げることが正しい選択肢ではないこと」も多々あったりするわけだと思います。
随分前から「ナンバーワンよりオンリーワン」と言われているように、多様性が評価されるはずの世の中になっているはずです。それならばそこに思いを至らせ、それに対応した話し方や会話の仕方があったのでしょう。
人はそれぞれ違うから。人は他人の心は絶対に100%理解などできないから。だからこそ優しさが必要だったように思われて思わず恥ずかしくなってきてしまいます。いい歳して何してんだ、という感じです。
無理やり創作の話に繋げてみましょう。
自分が自信を持って書いた小説を投稿したとしましょう。「これはすごいしょうせつだ」と震える手で投稿ボタンを押しました。翌日、コメント欄に自分の思いとは違う感想が書かれていたとします。
もちろん根拠のない暴言ならば話は別ですが「いや、そこじゃない。もっと先の話。これ感動しない? ちょっといい話じゃない?」と思ったとしても、それはあなたとその方は別の人だから感想も異なるのは当たり前だと思うべきじゃないでしょうか?
それを指摘するのはいいと思います。「自分はこういう思いで書いた」という主張をするのは間違ってない行為でしょう。
要はその書き方の話ですよね。私のように事実を盾に正論をぶつけるだけだと、それが原因でこじれてしまうこともあるかもしれません。
また逆にあなたが落ち込む必要もないでしょう。あなたはそれが正しいと思って書いたとしても、読んだ方が別の部分が気になった、というだけの話です。良い悪いではなく、単なる違いの話です。
実際、私も上記の件があった直後はちょっとだけ凹んでいましたが、今は回復しています。「自分と人とは違うから、自分と人の意見が違うのも当たり前」と思えば、多くの場合気持ちが楽になります。
でもその違いを楽しめない、もしくは受け入れられないときもあるかもしれません。そういうときは心が疲れているときなので、自分が好きなことをして気分を晴らすことも大切ですよね。まず何より自分が、自分だけが幸せになることを考えて、自分が幸せだと感じられれば大抵の場合、人にも優しくなれるというものです。
という感じで、無理やり創作に繋げてみました。どうでしょうか? もし「何言ってんだ」と思われた方は、それもまた違いということでお許し下さい。
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