「やりがいと仕事」のお話 [投稿報告:『管理官と王女様』第13話]
こんばんは、しろもじです。
小説投稿サイト「カクヨム」に『管理官と王女様』の第13話「入学」を投稿しました。
一旦投稿を止めると昨日書きましたが、もう少しは改変するとしても影響が出てなさそうだったので、投稿できる分はしておきます。
今日は、色々あってあまり書けていません……。
これから(今22時)少しだけ書いておくことにします。
明日、本気出す!(笑)
今日は小説とは関係のない話ですが、どうしても書きたくなったので、書いてみました。
仕事のことです。
やりがいと働き方
昨日のlivedoor Newsで「過労死遺族に「週休7日が幸せか」 渡辺氏が謝罪」という記事が掲載されていました。
13日の参院予算委員会の公聴会で、渡邉美樹氏が過労死防止の訴えに「週休7日が人間にとって幸せなのかと聞こえる」と発言。16日、遺族側が抗議し、渡邉氏は謝罪した。
Livedoor Newsより一部抜粋
記事内容だけでは分からないので、探してみたら参議院インターネット審議中継というものがあったので、探してみました。
2018年3月13日 予算委員会公聴会(クリックすると別タブで開きます。リンク先は動画)
33:30辺りから渡邉氏の発言がありますが、これを槍玉に挙げたいという話ではありません。
もうふたつ見てもらいたい記事があります。
昨今随分話題になっている「働き方」ですが、いくつかの記事を見たり、自分の体験に重ね合わせていくと、なんとなく議論がかみ合っていない理由が見えてきました。
仕事と労働
それが「仕事」「労働」という言葉です。
当社(私の働いている会社)の社長の有り難い言葉に「『仕事』ではなく『志事』である」というものがあります。
多分、どこからかパクってきた話なのだと思いますが、これはイヤミでもなんでもなく「金言」だと思うんですよ。
つまり世の中には、自分のやっていることが「志事」だと、志を持ってやっているんだ、という人がいます。
大義を持ってやっているんだ。お金や時間は関係ないよ、と言います。
とても立派なことだと思います。
私たちだって、小説を書くことを労働だとは思わないでしょう?
小説を1時間書いて「時給がない」と嘆く人はいないでしょう?
こう書くと「いや、いるっしょ」と言いたくなる方もいるかもしれません。
その人たちにとって小説を書くということは「仕事」なのです。
仕事なら、働いた分報酬を頂かないと、やってられませんよね。
こういう人が「自分がやりたいこと=志をもってやってること」を行えば、それは「仕事」になるんですよね。
渡邉美樹氏だって、そういうことを言いたいのだと思います。
志事人の働き方
そういう人は「残業」や「休日出勤」という概念がそもそもありません。
やっていることこそが人生の全てであって、あくまでも「倒れたり死んだりしないために休む」
わけですから、よく聞く「寝食忘れて」というのは、そういうことを指します。
ただ、成人になると皆が皆「志事」が出来るわけではありません。
食べるためにやむなし、という形で働くこともあります。この人たちにとっての仕事は「労働」になります。
「労働」は「時間」と「報酬」が基準になります。
志はありませんから、やった分だけ頂かないと話になりませんし、余分な仕事はしたくありません。
労働では駄目なんですか?
では「労働」では駄目なのか? というとそんなわけありません。
憲法に定められるところの「勤労の義務」は「労働の義務」でもあります。
働いて、お金を稼いで、自立して、納税する。
これは、確かにやらないといけないことかもしれませんが「志事」は求められていませんし、求められるべきではありません。
志事をやる人は、時間や報酬が原動力ではないので「目一杯働かないと」「寝食忘れてやらないと」と言っても良いんです。
でも「労働」をやる人は、そうではありませんから「時間」と「報酬」は、きちんと守られないといけません。
一般的には「志を持った人」が「労働者」を雇って、「仕事」を創り出す、という形が社会の本来あるべき姿なのではないかと思います。
労働人が志事人になろうとする
しかし、目の前にいる「志事人」に、ついつい感化されたり、もしくは「志事人」が自分と同じであるように求めることから、色々な問題が出てくるのではないかと思うんですよね。
「志事人」は「報酬」や「時間」に優先順位を置かない代わりに、それらに拘束されることもあるべきでありません。
でも「労働者」は「報酬」「時間」に拘束されます。
上の「アニメータの記事」の方は、まさに中間地点にあるような方と言えると思います。
好きなことをやっているけど、組織の中で、拘束されている部分が残っている。
私の個人的な考え方では、多かれ少なかれ、組織や個人から「ノルマ」や「制限」を受けている人は、全て労働者であり「志事人」とは切り離して考えないといけないと思っています。
自分の体験談
私も働き始めは「労働者」でした。
ある時、会社で「どうしても今日中に終わらせないといけない膨大な量の仕事」が発生してしまい、深夜まで残って残業を強いられることがありました。
嫌々ならがも、やらなきゃいけないのでやっていたのですが、0時を超えて休憩も食事も取れずやっている中で、あまりに疲れてついうっかり「あくび」をしてしまったんですよね。
その時、部署外の上司から「俺だったら、あいつは即クビにする」って小さい声で話しているのが聞こえてきたんですよ。
つまり「みんな一生懸命頑張っているのに、あくびをするとはなんとけしからんヤツだ」ということですね。
幸いクビにはならずに済みましたが、それから◯◯年後。
私自身も、会社の中で「自分のやりたいこと」を見つけて「志事」をやるようになりました。
休みがなくても、長時間労働でも、残業代が出なくても平気でした。
部下たちは、そんな私に釣られて、同じように残業をしようとしていましたが、それだけは絶対に許可しませんでした。
それは、先の経験があったからかもしれません。
そもそも法律で定められている
「志事人」と「労働者」は分けないといけません。
「志事人」が「ほら、俺はこうやってきたんだ。だから君もそうすべきだ」というから、色々な問題点が出てきます。
そして、日本の法律は「志事人」に厳しく「労働者」に放漫で、「企業」に優しく出来ています。
フランスのパン屋さんではありませんが、もっと法は厳格に運用されるべきです。
そういう「ズル」を見逃していると、社会全体が「ズル」に寛容になっていきます。
日本は資源のない国だから?
「そうは言っても、全てきっちり守ったら、日本社会が成り立たないぞ」とお思いの「志事人」の皆様。
人が死ぬほどの長時間労働や、厳しいノルマ、パワハラなどが存在している会社は、残念ながら潰れてしかるべきです。
「志」の向け方を考える時代になっている、そう思った次第です。
まとめ
おぉ、今日はなんだか、随分お硬い話になってしまいました。
言いたいことが上手く伝わったか、とても心配ですが、
これからお仕事に勤しまれる方には
「できれば『志事』と思える仕事に就こう」
「もしどうしても『死にたくなるほど辛い』と思うのであれば、とっとと辞めて、別の場所を探そう」
と言いたい。
また、既に会社の幹部になられている方には
「『志事』と『労働』の区別をつけよう」
「法律で定められている、もしくは契約以上のことを押し付けるのは甘えであると認識しよう」
と言いたい。
そういうことです。
個人的な見解ですが、人が生まれてくること自体には、実はあんまり価値などありません。
人がそこに価値を見出すから、価値があるわけです。
苦しいこと、嫌なことを常にやるべき。楽しようとか、楽しもうとか言語道断である。
そう言うのであれば、それはそれだけの価値ということです。
もしくは天然のMと言えるのかもしれません(笑)。
志事が終わったら、そういうお店に行かれると、良いでしょう。
今日は長い文章になってしました。
最後までご覧いただけた方、ありがとうございます。
それでは、また、あした。
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