【Micro Income】これからの小説家像を考える脳内会議4【創作日記112519】

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「これからの小説家像を考える脳内会議」と題して、これまで3つの記事を書いてきました。

これまでは前提条件としての仕事やお金を稼ぐことなど、小説家であるかどうかに関わらない部分について述べてきました。そろそろ「小説を書く」ということについて書いていきたいと思います。

第4回目は「書籍化」という、小説を書く人にとってはある意味目標である事柄について触れてみましょう。

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「書籍化」とは紙書籍になった、ということではない

書籍化を文字通り解釈すると「紙の本として出版された」という意味になりますよね。でも実際にはそうじゃないと思うんですよ。

例えば私が「しろもじ文庫」という書籍レーベルを立ち上げたとしましょう。自分で書いた小説に、ネットで探した絵師さんに依頼して表紙や挿絵を書いてもらい、それを製本屋さんに頼んで本にします。5,000部くらい刷って、それを手に本屋さんに営業し置いてもらうことに成功しました(と仮定します)。

さて、これで私は「書籍化作家ですっ!」と胸を張って言うことができるでしょうか?

ほとんどの人が「いや、それちゃうやん」とツッコミを入れてしまうのではないでしょうか。でもちゃんとした本になっていますし、本屋さんに置いてもらうこともできているわけで、それが既存の小説本と何が違うのか、という話になりますよね。

もうお分かりだと思いますが、それは「出版社から出されているかどうか」という点だけが異なるわけなんですよね。そして実はそれが一番大切だったりします。

出版社の編集者さんなど、第三者に「これは書籍にしたい」と思ってもらえる、ということがその本のクオリティを担保していると、多くの人が考えるからそれに価値があると思うということですよね。

ではもうひとつ。懲りずに「しろもじ文庫」を続けています。今度は「しろもじ文庫小説大賞」というコンテストを作りました。コンテストで大賞を受賞した方は、しろもじ文庫から同じように書籍化されます。ちなみに選者はしろもじと、あと数人ほどのアマチュア作家さんたちで構成されています。

この大賞受賞作の作者さんは「俺は書籍化作家だぜっ!」と大手を振ってもよいのでしょうか? いや、本人が大手を振るのは勝手なんですけど、他の人から見たときに「おぉ、凄い」と思われるか、という話ですよね。

当然思われません。

これは選者という第三者に問題があるのが分かります。私のことをよく知っている人であれば話は別ですが、そうでない方にとっては「しろもじって誰よ?」という状態ですよね。一方で「KADOKAWA」とか「講談社」(敬称略)とか看板が付くと、途端にそれは逆転します。

例え「大学卒業後、数ヶ月の新人編集者が選んだ書籍」と「執筆歴20年のアマチュア作家が選んだ書籍」を比べても、多くの人は前者を選ぶでしょう。そこには「いくら新人と言っても、出版社の看板がある以上、それなりの人も選定に関わっているでしょ?」という無意識化の判断があるからですよね。

オーソリティとブランド化

実はこの話は以前にも書きました。

なので若干被る部分もありますが、改めて書いてみたいと思います。

多くの出版社には「過去にいくつものヒット作を出した」という実績があります。それが権威(オーソリティ)を高めることに繋がっています。オーソリティを高めるためにはそれ以外に「露出を増やす」という方法もあり、TVや新聞広告、地下鉄の通路の看板、電車の中吊りなどなど、いわゆる広告によって多くの目に止まることにより「それだけ広告を出すのだから、きっと間違いがないはず」という認識になっていくのではないでしょうか。

それらは大量生産大量消費時代に形成されたマスメディア戦略によって成り立ってきたわけですが、現代においてもまだそれは有効な手段だと思われます。

思われますが、やや変わってきている部分もあるかとも感じています。

それは……そう、インターネットですよね。

ネットの登場により、ときに個人が企業を上回ることすらあるようになってきました。そうですね、仰る通りです。Youtubeです。

皆さんもヒカキンさんやはじめしゃちょーの動画は大好きでしょ? もし「そんなことないよ」という方でもひとつやふたつはお気に入りのYoutubeチャンネルがあるのではないかと思います。

彼らはオーソリティとは別の軸で戦っています。それが「個人のブランド化」です。ブランド化と言っても「高級路線」という意味じゃないですよ。瀬戸弘司さんと聞けば「Apple製品やデジタルガジェット」を思い浮かべたり、キズナアイちゃんの名を聞けば「バカ可愛い女の子」を連想したり。

そういうものが個人のブランド化ですよね。

もちろん現在ではUUUMに代表されるような事務所も台頭しており、純粋な意味で「個人で活動しているYoutuber」さんは少ないとは思いますが、それでも「最初は個人で」というパターンはまだまだ多いですし、事務所に所属されていない方も結構な数いるのだと思われます。

ここで私は思いました。

「動画では個人で成功した人がいるのに、小説ではあまり聞かないのはどうしてだろう?」

小説家としてのブランディング

当然、媒体が違うというのはあると思います。動画と文章、それだけでターゲット層は変わってきますし、伝わる情報量も桁外れに違うでしょう。

ただそうは言っても、ネットは文章から始まりました。誰でも気軽に動画を投稿できるようになったのは、ここ十年ほどの話です。一方でネットが普及し始めたのは(記憶によれば)二十年以上前。

倍も歴史が違うのに、どうしてこんなに差がついてしまったのか?

それは(あくまでも個人的な意見ですが)「小説家という人間が個人のブランド化をしてこなかった」からだと思っています。

こういう話をすると「なんとなく嫌だな」と思われる方も多いと思うんですよね。だって「個人のブランド化」とかってキーワードって、凄く胡散臭いじゃないですか。多くの人が思っているブランド化って「着飾っている」というイメージだと思われます。実際私もそう思っていました。

でも実際には違うと思うんですよ。

ありもしない実態を、さも凄そうに発信すること。

それは本当の意味でのブランド化ではないと私は思います。

私は良くも悪くも「ありのままの自分を発信すること」こそ、ブランド化なのだと思うんですよね。

本当はできないのに「私は1日に1万字以上小説を書けます」と喧伝したり、そんなことは微塵も思ってないのに「もの凄い傑作を書いています」と発信したり。

そういうことは、いずれバレてしまいますし、なにより「なんか嘘くさいな」と思われるのが関の山です。

私自身もそうなのですが、多くの人が「自分はそれほど個性的な人間ではない」と思って生きているのではないかと思います。だから『「ありのままの自分」はそんなに面白くないと思って「着飾った自分」や「偽りの自分」を発信することが、個人のブランド化なんだ。だから自分にはできない』と感じているんじゃないでしょうか?

でもそうじゃないですよ。

多くの人と会い、たくさんの人と会話してきましたが「この人、個性的じゃないなぁ」と思った人はいません。そりゃそうですよね。個性というのは作られるものじゃなく、もうその人の中にあるものですから。

むしろ「個性的じゃない」というのがどういうものなのかの方が難しい話です。クローンが大量生産されるようなディストピアな社会になったとしたら、そういうこともあるかもしれませんけどね。

まとめ

やや尻切れトンボ的になってしまいましたが、長くなってきましたので今日はここまでです。私自身の創作系日記などは「創作日記のタグ」から、今回の「これからの小説家像を考えるシリーズ」は「MI会議タグ」からお探し頂けますので、よかったらご覧下さいね。